長編

いやがらせ

 男の嫉妬は醜い。その通りだ。では女の嫉妬が醜くないかと問われれば、そんなことはない。嫉妬は醜いものだ。
 しかし人間が嫉妬することは仕方がないことなのだ。例えばギリシアの神々を見てみるがいい。嫉妬心の塊のような神ばかりではないか。神ですら嫉妬するのだから人間が嫉妬するのも当然のことなのである。だから嫉妬に身を焦がすことは恥ずべきことではない。

 そんな事を悶々と考えながら中原中也はぎりぎりと歯ぎしりしながら美女に囲まれる色男を遠くからねめつけていた。
 その日は連休の中日だったため珍しく中原は最近若者に人気だというカフェに足を運んだのだ。テラス席に通され珈琲と軽食を楽しみ穏やかな午後を過ごしていた。
 ……筈だったのだが、そこで偶然、三人の女性と包帯を全身に巻いた男が漫談しているのを見つけてしまった。
 その男こそ中原の天敵かつ相棒の太宰治である。中原はオープンカフェなんぞに足を運び浮かれ気分でいた三十分前の自分を呪った。
(一人でこんなところにいるところを奴に見られたら確実に揶揄かわれる……!
 いやいや、一人でカフェにいるところを見られたところで恥ずかしいことなんてあるか? 堂々としてりゃあいいだろう。しっかりしろ中原中也!)
中原は目を閉じて脳内で五回程太宰を抹殺するシュミレーションを行い心を落ち着かせ深呼吸をする。幾分落ち着きを取り戻し、もう一度太宰らを見る。相変わらず太宰は美女に囲まれていた。
(…………心底うぜぇ…)
中原はストローをがしがしと噛んだ。

 昔から太宰治という男の周りには女がいたように思う。少年時代には「可愛らしい人形のような男の子」であったために女性構成員から可愛がられていたし、同年代の女の子からも黄色い声をあげられていた。十六、七になれば美女をとっかえひっかえ、ひっかけた行きずりの相手も含めれば彼と関係を持った女性は数知らず。先輩にあたる構成員からは餓鬼のくせにと渋い顔をされることもあったが世の中に女性なんて星の数ほどいるが女性だって男性を選んでいるのだという現実をむざむざと見せつけていた。
 対して中原はといえば、一度だけ年上の女性と恋仲になり、そして破局した。それ以来女性との噂はとんと聞かない。太宰は「まだその女性のことが忘れられない」だとか「あれでいて根が純情だったから失恋のショックをひきずっている」だとか、「そもそも恋愛に興味がないのに無理して付き合ってた」だとか適当なことを宣っていた。その挙句、「まあ、一番は根本的にモテないのが原因だよね!」などと周囲に吹聴しては中原の額に青筋を立たせていたのだ。

 実際はと云うと、中原は太宰の言う通り「根が純情」でロマンチストの気があった。しかも殊更恋愛に関しては恋に恋する乙女の如く砂糖菓子のような何かを求めていたのだ。
 加えて一番近しい存在であった同年代の男、つまり太宰の爛れた女性遍歴と性生活を目の当たりにしてしまったことも大きい。例えば酔って太宰の自宅の一つに押し入った時に女性と太宰が縺れ合っているのを目撃してしまったことは一度や二度ではないし、時にはなかなか車から降りてこない太宰を訝しんで車のドアを勢い良く開けてみれば女性構成員とよろしくやっていたなんてこともあった。その時は太宰に「ちゅーやも、まざる?」とたどたどしく、且つ艶かしく誘われ卒倒した。
 そうしたアクシデントの数々を通して中原は「俺は、ああはならない」と胸に誓っていた。

 そんな彼でも美しい女性を見れば胸がざわつくし路傍で仲睦まじげにしている男女を見れば嫉妬心にも似た感情が湧くこともある。柔らかい体を堪能したいという欲だって人並みにあった。
 要するに、中原は美女に囲まれる太宰に嫉妬していた。
(右からブロンド、ブリュネット、太宰を挟んで……レディッシュ。趣味悪ぃな)
心の中だけで盛大に舌打ちをして好青年の顔をしてブロンド美女の手をとり何事か囁いている木乃伊男を改めて睨む。趣味が悪いというのは負け惜しみである。太宰を囲む女性ははっと目を引く美人ばかりだ。正直とても羨ましい。

 不意に太宰が中原の方を見た。かち合う視線に中原は思わず呻き声をあげ、太宰は少し驚いたように片眉をひょいと上げる。ぱちくりと目を瞬かせ、それから合点がいったとでもいうように太宰は唇を弧に描いた。
 太宰はレディッシュの彼女の腰を引き寄せる。彼女は驚いたように肩を跳ねさせるがまんざらでもなさそうにグレーの瞳を輝かせた。
 くすんだレディッシュ越しに中原を見据える太宰の瞳の奥に、チリチリと燻る炎が見える。
「……くそっ!」
いたたまれなくなった中原は伝票を掴んで立ち上がった。
 最低最悪の気分だった。

 さて、これからどうするかと中原は苛立ちで沸騰寸前の頭で思案する。
 ちらりと視界に入ったのはビアバーの看板。こんな時はアルコールをしこたま飲んで忘れるのが一番とばかりにバーへと吸い込まれていった。
 しかし、残念ながらこの日はとことん中原にとって厄日らしい。彼の童顔と身長のせいで年齢確認を偽装運転免許証でパスしたにもかかわらず店員がちらちらと未成年飲酒ではないかと(尤も彼は未成年であったので正しく未成年飲酒である)疑いの目を向けてくるのだ。
(……視線が鬱陶しい)
中原はちらちら見てくる店員をひと睨みする。こんなことなら組織の息のかかったいつものバーに行けばよかったのだと早くも後悔していた。こうなったらさっさと一杯飲んで自宅のワインを開けるかとドリンクメニューに目を通す。
(生ビール、フローズンビール、ビアカクテル、白ワイン、赤ワイン……シードル)

 黄金色の林檎酒の写真を見たその瞬間、中原の脳みそに稲妻が一閃した。
「林檎か……」
ぽつりと呟きニンマリと笑う。
 脳裏に浮かんだのはとある神話。かつて、『最も美しい女神へ』と書かれた黄金の林檎を巡り我こそはという三人の女神が争ったとか。その争いに端を発したのがかの有名な叙事詩に描かれた戦争である。
(あの美女三人には悪いが、派手に修羅場を巻き起こして貰おうじゃあねえか)
中原はくつくつと笑いを漏らす。こういった人間関係を利用した罠を張り巡らせるのは性に合わないが、太宰への厭がらせとなれば話は別だ。数多の女が泣かされてきたのだから、そろそろお灸をすえられてもいい頃だろう。
(奴は口から先に生まれてきたような奴だ。宥めすかされないよう、俺が上手い具合に三人を煽ってやってやらないとな)
 中原はメロドラマも真っ青な修羅場をプレゼントすべく脚本を頭に描き始める。美女三人に詰め寄られ冷や汗を流しながら宥めようとする太宰の顔を想像しただけで愉快な気分になる。情けなく頬に紅葉でも作ってきたら最高だ。
(女侍らせてイイ気になるなよ。社会不適合男。精々ぶっ刺されないように夜道にゃ気をつけな)
 中原は鼻唄混じりにシードルを注文する。グラスに注がれた黄金色は甘く爽やかで喉に心地よかった。

***

「中也にしては陰険な嫌がらせをしてくれたじゃないか」
後日、頬に綺麗な紅葉を作った太宰がむすりとした様子で云った。
「普段の行いが悪いから上手くいったんだ。ざまあみろ」と中原は自分の厭がらせの成果に満足して上機嫌だ。
「まったく、私は三人とも平等に仲良くしたかったのに。中也のせいで酷い目にあった」
「そうかぁ? 随分男前になったぜ」
にやりと口の端を歪めて紅葉を指さし嗤ってやると太宰は目を細めて舌打ちをする。包帯やガーゼに覆われているその美しいかんばせが悔しそうに歪み中原の心が癒される。
「聞けば、三人の中の一人はかなりのお嬢様だったらしいな。ご学友にも手前に弄ばれたことを涙ながらに語ったそうだぜ。こりゃあ暫くは手前好みのお嬢様相手の女遊びも出来ねえかもしれねえなあ」
ぴんと人差し指を立てて得意げに「お嬢様ってのは噂好きだからな」と加えてやる。
「……そのご学友とやらに最近横濱に出没する『全身傷だらけの外面は話し上手で紳士然とした色男。だが中身はただの色情魔』の噂を流したのは君だろう」
中原は太宰の指摘には敢えて答えずに「手前の不幸であと一週間は飯が上手い」と笑う。
「サイテーだね」
「褒めんなよ照れるだろ」
顔面の筋肉を最大限に駆使してそれはもう素晴らしい余所行きの笑顔を作り上げた。それを見た太宰のこめかみがピクリと動く。
「結局、一人としかヤれなかった」
「サイテーだな」
「褒めないでよ照れるでしょ」
女の敵め。そう罵ると太宰は「自分がモテないからって八つ当たりしないくれないか」と心底厭そうに返した。普段だったら何事か言い返していたのだろうが、この時の中原にはそんな悪口はそよ風にしか感じられない。余裕のある表情で一笑に付した。
 太宰にはそれがよほど不快だったらしい。
「こういうのは十倍返しにされるんだよ」と地を這うような声を出した。
 中原はぞわりと肌を粟立たせ、それからうっすらと口の端を上げ歪んだ笑みを浮かべた。自分の策が上手くいった証拠だ。
「……いいねぇ。その悔しそうな顔。最高だ」
「本っ当にサイアク」
 太宰は俯いて大きく深呼吸をした。そして片手でこめかみを押さえながら「ああ、もう、折角イイ子に出会えたと思ったのに」とぼやく。
「……一人、どうしてもモノにしたい子がいてね。三人に誰か一人を選べって迫られた時にその子を当然選んだけど、結局フラれちゃったし」
おや、と中原は目を見開いた。例の三人を脳裏に思い浮かべるが、彼がそこまで執着するほどの娘がいただろうかと首を傾げる。

 一人はブロンドの巻き毛の女性だった。太宰を見るそのグリーンの瞳は無垢そのもので、中原がすこし紳士然とした態度を取れば頬を紅潮させ男性に慣れていないのだとはにかんで見せた。聞けば彼女はどこぞのご令嬢らしく、言動からも蝶よ花よと育てられたことがうかがえた。
 もう一人は顎の辺りで切り揃えられたブリュネットの、幼さを残した少女だった。太宰にそっとブリュネットを撫でられ顔を綻ばせていた。笑顔になれば一際目立つ彼女の幼い容姿に首領の少女趣味は弟子にも移るのか秘かに呆れ返ったものだった。
 最後の一人はくすんだレディッシュを無造作に背に流し、一見つまらなさそうな顔をしていたグレーの瞳の女性だった。しかし時折太宰の方を見ては熱い視線を送っている。太宰は敢えてそれに気付かないフリをしていた。それを見て彼女は諦念を纏い薄らと笑みを浮かべるのだ。
 あの娘は駄目だ。だって、きっと、あの娘は報われなかったとしても太宰のことを赦してしまうだろうから。それは殆ど確信であった。
 ふと、彼女の雰囲気に覚えがあることに気がつく。誰に似ていたのだろうと考えて、毎朝鏡で見ているのだと直ぐに思い当たり思わず苦虫を噛み潰したような顔を作ってしまった。

「……誰のことだか知らねえが、どうせ他の二人ともヤろうとしてたくせに、よく言う」と中原は吐き捨てる。
「まったく、中也は変なところで潔癖だよね」と太宰は笑った。

「ねえ、中也は私が誰を選んだか分かるかい?」
太宰の弾んだ声を聞いて、中原は苦虫を噛み潰したような顔をした。今の太宰は実に楽しそうで、この顔は「何かを企んでいる顔」だった。
「……知るかよ」
「誰でもいいから云ってみなって。なんだったら自分が選ぶ子でもいい」
ほらほら、と人差し指で頬をつついてくる太宰に蹴りを繰り出しながら中原は太宰の意図を探る。
(いったい何考えてやがる? こいつは俺に「何」を言わせようとしてるんだ?)
けれど考える暇も与えずに太宰は「早く早く」と声をかける。
「だああ五月蝿ェな! 少なくともレディッシュの女は選ばねぇよ」
「へえ、なんで」
「俺と似てるだろ。髪とか瞳とか、あと多分背丈も。そんな女抱けるかよ」
素直に口に出してから、中原はしまったとばかりに手で口を覆った。

 咄嗟に太宰の反応を伺い、そして中原は彼の顔を見たことを後悔した。
「私はね、そのツンとした猫みたいな女の子を選んだんだ」
とっても、とぉっても、可愛かったなあ。
 中原は熱に浮かされたような太宰の声と蕩けるような瞳にびしりと体を強張らせる。
「あの子はね、私のことが好きなのに、恥ずかしいのか、気のないフリをしていたんだよ。わざとつっけんどんな態度を取ってみたり私を突き放すような事を云つてみたりするんだ」
でもね、と太宰は息を吐く。
「彼女ってば、私に構って貰おうとして時々ちょんと服を引っ張ったり包帯の下の怪我の心配をしてみせたりするのだよ」
「…手前にゃ、勿体無いな」
「それを見ると私は無性に意地悪がしたくなってねえ。そうすると彼女は怒ってしまうのだけど、本当はとっても喜んでいるんだよ」
うふふと笑いをこぼし、太宰は中原の髪を一束手に取った。
「だから、あの子を選んであの子と寝た。背丈は一六〇糎ぐらいだから、抱き締めやすい。
 抱いてる時はね、あの子の髪が白いシーツに綺麗に散らばるんだ。季節外れの紅葉みたいでね……」
太宰は「想像してみなよ」と弾んだ声で囁いた。
「彼女は天の邪鬼なんだけど、誉められると露骨に嬉しそうな顔をするから『可愛いね』って云ってあげるんだ。そうすれば、とても嬉しそうにする。そういう単純で、少し馬鹿なところも可愛い」
「……性悪男」
「うふふ……褒めないでよ。彼女も、もっともっとって云ってくれたよ?」
「ンなこたぁ聞いてねえっつの」
中原はふと、元恋人が「私は坊やに殆ど強姦されちゃったようなモンよ」と冗談めかして云っていたことを思いだし、自分と太宰の差に少し凹んだ。そして何故こんな辱しめを受けているのかと情けなさに泣きそうになった。何が悲しくて仮にも相棒であり犬猿の仲である男の情事の話を聞かなければならないのか。

「……じゃあ、その女と付き合うのか?」
「まさか! 完璧に近い子だったけど、喘ぎ声が好きじゃなくてね……もっとハスキーな声だと思ったのに」
太宰はパッと掴んでいた中原の髪を手放す。
「好きな声で啼いてくれる子じゃないと厭なんだ。気にくわない声だったら仕方がないから猿轡噛ませるよ。代わりに理想の声を頭で奏でる。そうすると酷く興奮できるから」
つう、と喉仏を撫でられ中原は咄嗟に太宰と距離を取った。背中に冷たい汗が流れる。太宰の瞳は捕食者のそれで、中原の本能は咄嗟に危険信号を出したのだ。要するに恐怖した。
 しかしそれを見た太宰の目が嬉しそうに細められ失策であったことに気がついた。
「あれれ、なんで逃げるのかな? 初な中也君は照れちゃったのかな? それとも、」

 私が怖くなったのかな?

カアッと顔が火照る。喉がカラカラになる。それを見た太宰の瞳が更に蕩けた。
「ねえ、中也。私がどんな風に、あの女の子を抱いたか、聞きたくなぁい?」
中原の脳が「太宰を受け入れよ」と命じる。太宰の瞳の奥の炎がゆらゆらと揺らめく。中原は口を開く。喉の奥まで出かかっている言葉は『yes』だ。

「……っざけんな。ぶっ殺すぞ。手前の性事情なんざ知りたかねえよ」
しかし、中原はなんとか『yes』を引っ込め悪態をついた。
「そうなの? 私は中也に聞いてもらいたいのだけど………あ、私は五大幹部の一人で君は一構成員だよね?」
「手前、セクシャルハラスメントって知ってるか?」
「勿論知っているよ。今まさに私が中也にしてるコレのことでしょう?
 ……ああ、酔っ払った中也が来るのを見越して部屋に女の子連れ込んだり、中也と任務の時にわざと御姉様方とカーセックスに興じたりしたのもセクハラになるのかな。中也はどう思う?」
「……はぁ?」
中原はぽかんと口を開けて太宰を見た。まるで何を云っているか分からない、といった表情だ。太宰は「だぁかぁらぁ」と幼い子どもに云い聞かせるように続ける。
「中也が今日は酔っぱらって押しかけるだろうって日はホテルじゃなくて私の部屋で女の子とセックスしたのさ」
「?! なっ、てめ……! なンでそんなことっ」
「んーとねぇ」
少し考えるそぶりを見せてから太宰はにんまりとチェシャ猫のように笑った。
「中也に見てほしかったから、かなあ。なんだか中也に見られてたら興奮できそうな気がして」
それを聞いた中原は変態野郎死んじまえと叫び今度こそ逃げ去った。その背に勝ち誇ったような太宰の高笑いがささる。

 幸いにも「次はもっと中也に似た女の子とヤってるところ、君に直接見てほしいなあ」という熱を孕んだ呟きが中原に届くことはなかった。

fin.