短編

こどものどれい

 中原中也は混乱していた。

 彼は誘拐された。まだ小学生ですらない、幼稚園児だった。目の前の発情しきった大人を前にして自分の未来を予想することはできず、ただ漠然とした恐怖に震えることしかできなかった。
 彼は私立の幼稚園に通う子どもが誘拐された場合、犯人は身代金を目的とすることを知っていた。彼の通う私立幼稚園には富裕層の子どもが多かったから、そう教育されていた。
 だがしかし、彼は身代金目的で拐われたのではない。彼を拐った男は息を荒げポンと広いベッドの上に落とす。ギシ、という音が中原にはやけに大きく聞こえてぎくりと肩を跳ねさせた。
 たまらずに「やめろよ!」と中原が叫ぶ。
「やめろ!やだ、やだ!やめてよ!
 助けて!お母さん!お父さん!
  先生!先生!森先生助けて!」
色素の薄い瞳にぷっくりと膜をはる中原を見て、男は舌なめずりをした。そして「中也くんは今からお嫁さんになるんだよ」と猫なで声で言った。
 お嫁さん、と中原は繰り返す。お嫁さん、なんのこと?おれがお嫁さん?男の子なのに?どうして?このおじさんと?
 男は小さな花の刺繍があしらわれた愛らしいベールを取り出し艶やかな赤毛に被せる。「可愛いね、可愛いね」と男がうっとりと言って、中原の小さな口に齧り付いた。ナメクジのような舌が唇を舐め口の中を這い回る感覚。どうしようもない気持ちの悪さと、この男と二人きりで誰も助けに来てくれないのだという恐怖が小さな体を襲った。
 中原はとうとうぽろぽろと涙を流した。長い接吻から開放されるとベールを投げ捨てて赤ちゃんのようにわんわんと泣いた。

 そうして泣き疲れると、こてんと倒れて眠ってしまったのだった。

 だから彼は混乱していた。
 たった一人、男に誘拐されたと思っていたから、一人だけで誰も助けてくれないと思っていたのに、目の前にはよく見知った少年がいるから、混乱していた。
「中也?大丈夫?」
「、え…だざい………?」
少年――太宰治は眉を下げながら言った。
「そうだよ。僕だよ…………。
 僕も中也と一緒に……いや、中也のちょっと前に、拐われちゃったんだ」
 太宰治は中原の通う私立幼稚園の近くにある公立保育園の園児だった。彼らは通う場所こそ違えど週末には必ず一緒に過ごすそれはそれは仲の良いご近所さんだ。尤も、会うたびに口喧嘩を始め取っ組み合いの喧嘩に発展しているのだが、二人はいつだってぴったりと寄り添ってぎゅうと手を繋いでいた。

 中原は太宰の存在にホッとしたのか再びぼろぼろと大粒の涙を飴玉のような瞳からあふれさせた。ひっくひっくとしゃくりあげる彼に、太宰は「泣かないで」と囁いてぺろりと涙を舌で掬う。しょっぱいなあと独りごちる太宰に中原は頬を赤らめ緩慢な動きで首を振る。それでも太宰は気にせずに次から次へと溢れる涙を舐めあげ、ちゅうちゅうとふくらとした頬に吸い付いた。
「んむ…ね、中也、泣かないで。僕がいるから………ね、ね?」
「ぅう、太宰ぃい………おれ、おれ……あいつにちゅうされたぁ……やだぁ。気持ち悪いぃ」
ぐずぐずと泣きながら太宰にどうにかしてと訴える中原は、普段の“皆のまとめ役”の少年とはかけ離れ、小さい男の子――それこそ赤ん坊のようだった。太宰は、頬を上気させ恍惚とした笑みを唇に浮かべながら「ああ!かわいそうな中也」とため息を吐いた。
「消毒してあげるから、お口開けて?」と太宰が言って中原が素直に口を開ける。赤く小さな舌が見えて、太宰は背中がむずむずとするのを感じた。その「むずむず」を我慢して口を大きく開き差し出された口に齧り付いて咥内に舌を這わせた。びくりと驚き跳ねる中原の体をそっと押さえてくちゅくちゅと舌を絡ませる。大人のちゅうって、こんな感じかな、と太宰は中原の歯列をなぞり、舌を摺り合わせる。その一つ一つに中原がびくびくと小さな体を震わせた。
 やがて「ぷはっ」と二人して息を荒げて口を離してお互いを見やる。つうと二人の間を銀の糸が繋げているのがなんだか恥ずかしくて、太宰は俯いて糸を断ち切った。
 すると中原が背を曲げ、もじもじとしながら俯く太宰の唇をかぷりと噛んだ。
「わっ」と驚いた声を出した太宰に、中原は顔を真っ赤にさせながら視線を彷徨わせ「もっと、消毒」と強請る。太宰はどきどきと五月蝿い胸を小さな手でおさえ「いいよ」と応えた。
 薄暗い部屋にくちゅくちゅと水音が響く。二人は体をぴったりと寄せ合いながら、お互いの唾液を交換した。
 いつの間にか太宰は男が中原に被せようとしていたベールを手にしていた。そして太宰は嬉しそうに中原の頭に被せた。中原はベールを被せられたことには気づかずに、こくりと太宰の唾液を飲み込んだ。

 疲れきった中原がベッドで寝てしまったのを確認すると、太宰は鼻先に唇を寄せてから恭しくベールを取る。愛らしいベールに顔を埋め、すうと吸い込み頬を赤らめる彼の瞳にはちろちろと炎が燻っていた。
 「ちょっと待っててね」と眠る中原に囁き、とん、と軽い足音を鳴らして太宰は隣の部屋に向かう。
 もとより部屋には鍵が掛かっていなかったのだ。

 隣の部屋には彼らを拐かした男がソファの前で跪いている。それをフンと鼻を鳴らして嘲笑ってどかりとソファに座った。
「ね、おじさん。約束守ってくれてありがとう」
太宰は言った。
「僕が、中也をお嫁さんにしたいって言ったら、ちゃあんと中也を連れてきてくれたものね!
 偉い、偉い!」
まるでペットを褒めるような口調の太宰に、男ははあはあと息を荒げた。気持ち悪い、と太宰はピンと眉を跳ね上げる。

 しかしそんなことはおくびにも出さず「そうだ!おじさん、ご褒美あげるね」と太宰が言う。そして足を男の前に差し出し「舐めていいよぉ」と猫なで声を出してぷらぷらと降って見せる。
おじさん変態さんだから嬉しいでしょう?と太宰が言えば、男はごくりと唾を飲み込んだ。そして小さな包帯塗れの足にそっと手を添える。そろそろと足の指を一本一本なぞる男の目つきは餌を前にした犬のようだった。
「じれったいな。早くしてよ」
いつまでも足を弄り続ける男にしびれを切らした太宰が反対の足で男の肩を蹴った。
 すると男は太宰の足にむしゃぶりつき、小さな足をじゅるじゅると舐め上げた。
「………気持ち悪い」
太宰が言う。
「……ね、おじさん。おじさんは、とんでもない変態さんだけど、僕との約束を守ってくれたよね。
 でも、僕、中也にちゅうして良いなんて、一言も言ってないよ?」
男は太宰の言葉に瞳を揺らした。怒りに燃えた太宰の瞳は仄暗く、思わず身を震わせる。
「僕、約束を守れない人は嫌い」
吐き捨てるように呟き、足を振って男を蹴り上げた。そしてソファから降りると男の股間をぐいと踏みつけて「足、気持ち悪いから、中也に“消毒”してもらうもん」と頬を膨らませた。その姿だけは、愛らしい幼気な五つばかりの子どもだが、ぎゅうと踵で男の股間を踏み潰す姿は幼気とは程遠かった。
 男は脂汗を流して悶絶しながらも目の前のどこか魔性を帯びた少年に魅入られていた。それを尻目に、太宰は「中也ぁ……」と先ほどの接吻を思い出してか自身の唇に指を這わせてうっとりとしている。
「ドレスは無かったけど、ベールは被せたし、ちゅうもしたし……。
 あとは指輪だけど…うーん、指輪は流石に準備出来ないなあ。でも、結婚と言ったら指輪だものね」
うんうんとうなりながら考える少年を、男はよだれを垂らして見つめていた。

「あっそうだ!」
太宰が何かを思い出したように叫んだ。
「あのね、おじさん。中也と僕が結婚できたら、おじさんはもう要らないの。だから、これでバイバイだよ」
最後に僕に踏んでもらえて良かったね、と天使のように微笑んで太宰が体重をかけて股間を踏み潰す。
「ホントは、僕たち二人でおじさんの所からバイバイしようと思ったんだけどね」と太宰が秘密を打ち明けるように耳に口を寄せた。
「おじさん、約束破って僕の中也に酷いことしたから、お仕置きだよ」
男は「お仕置き」の言葉に半ば恍惚としながら太宰を見上げた。
 太宰はその表情を馬鹿にしたように鼻を鳴らし男から離れる。そして「じゃあね、変態さん?」と手を降って中原の眠る部屋へと消えていった。

***

 部屋に戻ると中原が不安げにドアを見つめていた。
「中也っ!」と叫んで駆け寄ると、中原は「酷いことされなかったか」と太宰の全身をぺたぺたと触った。こそばゆいその感覚に体をもじもじさせながら太宰は「足、舐められた」と言った。
「足ぃ?!」
「うん……気持ち悪かった」
「あの変態野郎……!」
顔を真っ青にさせてから、次の瞬間に顔を真っ赤にさせて怒る中原に、太宰は心臓がぎゅうと鷲掴みにされたような心地になった。頭がふわふわして唇がにやにやと笑みを形作るのをなんとか抑える。
(中也が、僕のこと心配してくれてる。自分のことみたいに怒ってくれる)
それだけで吐き気を抑えて男に足を差し出した甲斐があったというものだ。

「でもね、中也、安心して」
太宰がくすくすと笑いながら中原にそっと耳打ちをする。
「僕ね、あのおじさんが見てないすきに、お巡りさん呼んだの。だから、僕たちお家に帰れるよ」
「ほんとかっ?!」
中原は安心したように笑顔を浮かべて「ありがとな」と太宰に抱きついた。
「うふふ………中也、素直で変なの!」
「なっ、手前……!」
冗談だよ、と太宰も中原に抱きつく。
「ねえ中也、僕、頑張ったから、ご褒美ちょうだい?
 ――――さっきおじさんに舐められた足、消毒して?」
耳に吹き込むように強請ると、中原は「ンッ」と小さく声をもらした。耳にかかる吐息が擽ったいのだろう。太宰から耳を守るように顔を離して「消毒って、馬鹿じゃねえの」と頬を膨らませた。
 流石に消毒してもらえないかあと少し太宰ががっかりしていると、ちゅう、と押し付けるだけの、接吻をされた。吃驚して中原の顔を見ると、悪戯が成功したかのような顔で「ご褒美」と得意げにされる。
 太宰は「……馬鹿じゃないの?」と返しながら、へにゃりと幸せそうに笑った。
 そして二人はどちらからともなく唇を寄せてちゅ、ちゅ、と接吻を繰り返す。

 遠くでパトカーの音が鳴り響いていた。