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夜桜遊歩

 桜を見に行きたいと言い出したのは、他でもない中原中也その人だった。
「いいもんだよな。桜。見るなら夜がいい。誰もいなけりゃ、もっといい。いいか、桜だけを見に行くんだぜ。酒はその後にでも」
ほろ酔いの青年はワイングラス片手にくふくふと笑う。尾崎の私邸で催された宴会でほろほろと漏らされた言葉だった。

 それを部下の一人が聞き、別の男に話し、そのまた別の女に話し、巡って尾崎紅葉の耳にも届いたのだ。わっちの庭にある桜じゃ不満と言うわけか?と頬を膨らませ少女のように拗ねた女傑は、でもそうね、夜桜、いいわね、とうっとり思いを馳せる。
 そこから彼女の行動は早く、まず最初に帝都にある料亭を予約した。次に親愛なる彼女の首領に根回しをする。正確に言えば親愛なる彼女の首領の異能に、だが。
 そして弟分を呼び出し上等なものを一着、仕立てさせた。目を白黒させる彼に、くふくふと笑って「来週の水曜日の夜、わっちに付き合え。予定は空いておろう?」と命じる。
「我らが首領が夜桜を見に帝都まで足を運ぶそうじゃ。お前も来い」
「構いませんが。帝都ですか」
「上野の☓☓亭じゃ」
ふふんと得意げに笑う彼女に、弟分はぽかんとしながら「それは……楽しみですね」と言うのだった。


 さて、この尾崎紅葉であるが、弟分に対してつねづね思うところがあった。それは、どうにかして和装をしてくれないか、ということだった。あけすけに言ってしまえば、着せ替え人形になってくれないか、ということだ。
 尾崎が初めて弟分を預かった時にはがっかりしたものだった。当時十九の彼女は、密かに姉妹というものに憧れていたからだ。姉妹というものは服の貸し借りをするものらしいという出処不明の噂を信じ込み、わっちも妹と服の貸し借りというものをしてみたいなどと夢見ていた。
 その為か、たまに、彼女は弟分を着せ替え人形の如く扱う。お前は派手好きだから、と彼の好みに合わせたものをあつらえては着せて悦に入る。
 弟分の方も「馬子にも衣装じゃな」とくふくふ笑う姉貴分にうんざりしたようにため息をついて「もう俺はガキじゃないんですよ」と文句を言うが、まんざらでもないのだ。

 そういったわけで、尾崎はこの夜桜見物の為に弟分には上等なものを与えた。
「似合ってますかね」とチョーカーを気にしながら訊くので、「馬子にも衣装じゃ」といつものように返す。弟分はそれを聞いて「さすが姐さんですね」と微笑んだ。

 彼女自身も夜桜見物にふさわしい装いをして、鏡の前に立つ。今日もわっちの目に狂いはないの。自画自賛して私邸の門の前で待っているであろう弟分のもとへ向かった。

 今日の夜桜はきっと美しい。