長編

星のない夜

 その年の万聖節の夜は星の出ない夜だった。陰気な青白い月が雲間から覗き、生気のない光が地に降り注ぐ。
 こんな日の夜は万聖節でなくとも招かれざる客が現れる。人々はそう口にして戸を固く閉ざし守るように幼い子供を抱きしめ早々に眠ってしまうのだ。
――でないと狼男にぺろりと食べられてしまうから!
 それは一つの言い伝えであった。

 満月の夜は狼男にとって恐怖の夜だ。自我をなくし人間を食らうために夜を彷徨う。その姿はまさに化物であり、とても人間とは呼べはしない。
 いくら人間であると主張したところで、忌々しい満月の夜が空け、自身の目の前に人間であったものの残骸と血みどろの己の身体と、散らばる獣の毛が彼らを嘲笑う。お前はもはや人間ではなく、かといって獣にもなりきれぬ出来損ないである、と。
「………よし」
だから中原中也は狼男であることに抵抗した。じゃらりと耳に五月蝿い音をたてる鎖は彼の首を彩る真っ赤な首輪に繋がれている。
(あとは――この口輪を嵌めれば……)
中原は目の前の口輪を握りしめ、きゅっと唇を引き結んだ。小刻みに震える己の両腕を叱咤し口輪を顔の位置に持ち上げる。
(こうすりゃ、満月もやり過ごせる。――――絶対に!)
そう自分に言い聞かせた。

「ちゅーうーや君!あっそびーましょ!」
「ぎゃああ?!」
しかし口輪はやや大袈裟にとび跳ねた彼の手から滑り落ちカツンと床に硬い音を響かせた。
「あらら、ナニコレ?口輪に首輪だなんて、随分な趣味だねえ」
「手ッ前……!!」
中原は音もなく現れた男――太宰治を睨みつけた。
「いつもいつも邪魔すんじゃねえ!この疫病神!俺になんの恨みがあるってんだ!!」
「酷い言い草じゃないか。だいたい君、自意識過剰じゃないのかい?私だって君に会いたくて此処にいる訳じゃあない。仕事できているのだよ?」
どこかの誰かさんが仕事を増やすからね、と太宰は厭味ったらしく付け加える。その言葉に中原は心底不愉快そうに舌打ちした。
「……だったらサッサとその鎌で俺を殺せば良いだろうが」
太宰は中原の低く小さな囁きにぱちくりと目を瞬かせ、にんまりと笑う。そして中原の顔を両手で挟み込み視線を合わせて「駄ァ目」と甘い声を出した。

 太宰治は【死】――俗に言う死神だ。真っ黒なフードを被った憂鬱な顔の青年は、その手に握った大きな鎌で魂を刈り取る。満月の夜になると中原のもとに現れるその青年が、中原は大嫌いだった。
 だってその青年が現れる時は人が死ぬ時。満月の夜に中原の前に現れる意味は、そして中原のせいで仕事が増えると言ったその意味は――。
「首輪と鎖、そして口輪ぐらいじゃ狼男を御すことなんて不可能さ」
「やってみなきゃ分かんねえだろ」
「分かるさ。だって、私には感じるもの。無残で残酷で、理不尽な【死】を感じるよ。
 ――――きっと君のせいだ」
中原が「五月蝿ぇ!」と怒鳴り殴り掛かるが太宰はひょいとそれを避けて宙に浮かんだままニヤニヤと笑った。
「もう諦めな。君はどうしたって狼男なんだ。抗うなんて無意味なことはせずに、本能に身を委ねればいい」
「黙れ、糞鯖。今日こそ俺は手前の前で無様な姿を晒さねえ。手前が此処に来たのは無駄骨だったんだよ。明日の朝地団駄踏んで悔しがっても知らねえからな」
指を指して言い放つ中原の瞳はギラギラとした輝きを放っていた。
 ぞくりと肌が粟立つ。胸から溢れ出る激情のまま、太宰は笑い声をあげる。
「いつか、君の魂をこの手に抱く日が楽しみだよ」
「お生憎さまだな。そのいつかは来ねえよ」
フンと鼻を鳴らし、中原は空を見上げた。
 宵闇が迫る。
 今宵は万聖節だ。小さな子供たちが列をなして夜を歩く日。嗚呼、どうか善良で心配性な彼らの両親よ、愚かで蒙昧な大人たちよ。万聖節の夜を楽しみたいのだと強請る子供を安全な扉の中に隠してくれ。

 祈るように、呪うように空を睨む中原を太宰はうっとりと見つめた。

 太宰治と中原中也が出逢ったのは今から十数年前のことになる。
 太宰の仕事は死者の魂をその身体から抜き取る事だった。俗に【お出迎え】という奴である。死に近いもののみがその姿を認知する人ならざる者。
 彼はその整った容姿ゆえに「天使がきた」と勘違いされる事もしばしばあるが、手に持つ鎌やフードを見て「悪魔がきた」と恐れ慄かれることも多い。しかし彼は悪魔でもなければ勿論天使などでもない。
「天使とか悪魔とか、勝手に盛り上がっちゃう人も多いけどさ。そういう人に限って魂がしぶといから鎌を使って引き剥がさなきゃいけなくなるのだよね。ホント、良い迷惑」
そう太宰は口にする。彼にとって鎌を使う仕事は面倒な仕事であり、忌避すべき仕事なのだ。
「詰まらない仕事さ。魂の回収だなんて。こっちは仕事だからいちいち顔すら見ちゃいないってのに、勝手に期待したり絶望したり。馬鹿馬鹿しい。
 私の顔を見て天使だと勘違いするオメデタイ人間も、悪魔だと恐れるバカな人間も、死神が殺しに来たと敵意を顕にするマヌケな人間も死ねば一緒さ」
太宰はそう呟いた。

 つまり飽き飽きしていたのだ。不死身ゆえに生や死に焦がれるものの、毎日目にする生と死からは生きる意味や価値を未だ見いだせずにいる。いっそのことこの世界から消滅してやろうかとも思うがその方法も見つからない。
 ただ機械的に魂を回収する毎日。気が狂いそうだった。

 そんな時に出逢ったのが幼い中原だった。
 彼は死ぬべき運命にあった。太宰は彼の魂を回収するはずだったのだ。
(小さい子供……やや痩せてはいるものの、死ぬほどではない。健康そのものだ。それなのにこの子に纏わりつくあまりに濃い【死】は一体……?)
太宰は快活な赤毛の少年が如何にしてその生涯を終えるのか想像し、ため息をついた。
(こういう一見死からは遠い人間はなかなか死を受け入れられない。
 ――――この子もそんなに賢くなさそうだし、今度の仕事も面倒だろうね。
 ああ、嫌だ嫌だ)
 少年はそんな事も知らずに太陽の光を浴び艷やかな赤毛を黄金に輝かせていた。

 そしてその夜、少年は狼男に噛まれた。熱に浮かされうなされる少年を母親は抱きしめ泣いた。父親は母親を少年から引き離した。医者は少年の傷を見ると顔色を変え父親に息子さんは今死んだ方が幸せだと言い残し逃げていった。生きるか死ぬかの瀬戸際、たとえ少年が生き延びたとしても狼男に噛まれた者は狼男となる。
 なるほどね、と太宰は納得した。顔を真っ赤にして膏汗をかく少年の頬を撫でる。
「君の魂の回収は、手こずらなさそうだね」
そう言ってにっこりと微笑む。その微笑みは天使の如き慈愛に溢れたものであった。

 その時、少年の小さな手が太宰の腕を掴んだ。
「ねえ、おにいさん」と少年が唇を動かす。
「おれ、しぬの?」
「私が、見えるのかい?」
「見える。とても綺麗な人。俺のことを殺しにきたんだろ」
「私は殺すんじゃない。君の魂が身体からちゃんと離れるための手伝いをするだけさ」
「俺は死なない」
「それは君次第だね」
「でも、手前は、俺が死ぬと思ってるから此処にいるんだろ」
「そうさ。できることなら、私の手を煩わせないでほしいものだけれど」
太宰がそう言えば、少年はうっすらと微笑んだ。その微笑に太宰はハッとした。
「最初は、手前があんまり綺麗だから、天使が迎えに来たんだと思ったけど」と少年は言う。
「なんか手前、性格悪そうだし、よく見ると陰気な顔してやがるから、天使じゃねえな」
「失礼なクソガキ」
ムッとして鼻をつまむ。少年はふごっと子豚のような声を出してぺしりと太宰の手を叩いた。
「天使じゃねえなら死神だ。俺は死神なんかに負けねえから」
少年は太宰の手に頬をぴとりとつけた。
「つめたくて、きもちいい。さすが、死神。温かさのかけらもねえな」
それだけ言って眠る少年を太宰はぽかんと口を開けて見ていた。

「君、中原中也……だっけ?」
太宰は中原の幼い顔を見てほう、と熱い吐息をもらした。
「特別に、君の魂を、君に返してあげる」
そう言って心臓に口付けた。
「一寸だけね、君に、愛されてみたいって思った」
生きている君に愛されてみたい。君が死を思う時に、私は現れよう。そして君に接吻をあげる。君の魂を食べるんだ。きっと砂糖菓子のように甘いんだろうね。嗚呼、楽しみだ。君が死を――私を求めるまで、すなわち私を愛するまで、楽しくなりそうだ。だから――――…………。
「だから、その日まで、もっともっと美味しくなっておくれよ」

 これが始まりだった。
 太宰は少年の魂を少年の肉体に戻した。少年は生き延び狼男としての宿命を負った。
 最初の満月、少年は両親を殺した。二人の魂を回収したのは太宰だった。一糸纏わぬ姿で両親だった肉片の前に座り込み、血に染まりながらしゃくりあげて涙を流す中原。太宰は彼にそっと寄り添い「死にたいかい」と囁いた。中原は怒りを瞳に宿してナイフを振りかざした。
 とある満月の夜は、友人を殺した。やはり其処には太宰がいて、中原の流す涙を唇ですくいながら「かわいそうに」と哀れんだ。
 別の満月の夜は、尊敬していた人を殺した。中原は太宰に殴りかかった。それを太宰はうっそりと微笑み受け止めた。

 そうして幾度も季節が巡った。
 中原は何人も何人も殺し、そして最後の満月の夜、恋した女性を殺した。太宰は絶望した中原の瞳に抱いた劣情を隠すことなく彼の小さな体を抱きしめた。
「ねえ、死にたいのでしょう?
 辛くて辛くて堪らないのでしょう?
 私は君を楽にしてあげられる。君が私を望むなら、君が私を求めるなら、今すぐにでも求めるものをあげる」
甘い甘い声を中原の耳に吹き込む。「あ」と声をもらし震える中原の体に歓喜した。
「俺、は………」
そう言って中原は太宰の体に縋り付く。
(やっと、君の魂が手に入る)
太宰は中原の額に口付け「どうしたの?」と優しく続きを促した。
(知ってるよ。君がいつも死ぬ覚悟をしていることを。胸の裡では死に焦がれていることも。
 君は、君が思っている以上に、私を求めているのだよ。早くソレを認めてしまえばいい)
「俺、俺…………」
今にも泣きそうな顔で中原は太宰の背に腕をまわし、そして――――。
「…………残念ながら、私は不死身なのだよね」
「しぶといやつ」
中原は太宰の背をナイフで突き刺した。瞳に怒りと憎しみと、ほんの少しの憧憬を滲ませ、中原は「糞野郎め!」と吐き捨てた。
「ふふ………うふふ…」
「んだよ、気色悪ぃな」
「いやなに。ぞくぞくしちゃってね」
そう太宰が言うと中原は片眉をひょいと上げる。そして悪戯っぽく笑うと太宰の頬に唇を寄せた。
「俺が死ぬ時は、俺が決める。俺が【死】と接吻する時も俺が決める。手前じゃねえ」
これで話はしまいだとばかりに中原は踵を返し去っていく。
「…やっぱり君は最低で最悪で、最高だね」と太宰は彼の後ろ姿に熱い視線を送った。

 そうして迎えた万聖節の日。太宰は首輪と口輪と、それから隠してはいるものの手錠まで用意する中原を揶揄かいながら夜を待った。
「………ねえ中也」
「んだよ糞太宰」
中原は落ち着かない様子で鎖を握る。太宰はその手を包みこんだ。
「君は前の満月の夜、【私】と接吻する【時】を決めるのは君だと言った」
でもね、と中原の手を包む力を強くする。
「予言しよう。君はいつか私を求める。私を愛していると認める日が絶対にくる。
 それが今晩か、それともまた違う満月の夜かは私にも分からないけれど。君は今晩も人を殺して情けなくも私に慰められ、私への憧憬を募らせる」
せいぜい無駄な足掻きでもするがいいさ。君が生に固執すればするほど君の魂は甘く私好みの味になるだろうね。
「ああ、でも……」
太宰は中原の体をぎゅっと抱きしめた。
 空を見ると満月が輝いている。腕の中の温もりが形を変え始める。
「でも、今夜は万聖節だ。
  私たちの甘い時間を妨げる無粋な【招かれざる客】が現れてしまうね?」

 死神の戯言は狼の遠吠えにかき消された。
 万聖節の夜は始まったばかりだった。