MAIN文豪ストレイドッグス長編

眩惑の泡,或いは泡沫の日々

「ぼくは恋がしたい」コランは言った。「きみは恋がしたい。彼も右に同じ。わたしたちは、きみたちは、彼らもやっぱり、恋に落ちたい」




chapter1.少年、大いに惑う

 太宰治にとって十にも満たない少年少女というのは珍獣と同じであった。何故ならば彼はいつも大人に囲まれていたから。
 彼自身も今年で八つになろうという少年であるのだが、物心ついた時分にポートマフィアに拾われた身である。自分以外の幼い子どもを見る機会といったら黒服の男たちに連れられた“社会科見学”ぐらいだったのだ。勿論、彼らが幼い太宰に見せた“社会科見学”は血と硝煙の臭いがたちこめる夜の世界、横濱の暗部だった。もって生まれた能力を買われ今日までマフィアに生かされてきた太宰は、少年ながら誰よりもマフィアとなるよう教育を施されていた。
 それゆえにか太宰少年の知る同い年の子どもは皆一様に哀れを全身から漂わせていた。


 だからポートマフィアの本部の一室で大きなソファに座る子どもに酷く驚いたのは彼にとっては当然のことだったのかもしれない。

 その子どもは小綺麗な身なりで大きなソファに小さな体を沈めていた。白いシャツに赤いベスト、濃紺のハーフパンツに黒のハイソックスと革靴。腰まで届く髪は横濱の海を染める夕焼けの色。その赤毛に隠れてその横顔は見えないままだ。
(長い、赤毛、夕日に照らされた、川みたい。
 女の子かな、それとも男の子?)
 一心不乱に本を読んでいるその子どもは太宰の知る同い年の子ども――太宰にとって同い年の子どもというのは小汚なく哀れで文字も読めないような存在だった――とは程遠い。
 その子どもを見たときの衝撃はUMAでも発見したような心地であった。同い年の子どもって、薄汚くない子どもって、本当に存在するんだ、などという馬鹿げた感動すらあった。
 太宰は大きな黒い瞳を輝かせる。
(これはいい――――暇潰しになるな)
 久々に心が踊っていた。


「ねえ君」
 太宰は人好きのする、大人たちからは「まるで天使のよう」と評判の笑顔を貼り付けて声をかける。
 その子どもはゆっくりと本から目を離し顔をあげた。赤毛に隠れていたその顔が露になる。
 そして、そのかんばせを見て太宰は思わず顔をしかめた。

 とても醜い子どもだった。
 不健康なまでに生っ白い肌とおちくぼんだ大きな目はぎょろりと不気味で骸骨を思わせた。不安げに歪む唇と忙しなく動く彼の灰色の瞳は、太宰の知る醜く哀れな同年代の子どものそれだ。
(……もっと美しい子だと思ったンだけどな)
少し落胆したことは否定できない。だが太宰はその子どもに話しかける。大丈夫、きっと緊張しているだけさ。そんな風に自分に言い聞かせて。
「君、何読んでるの」
「……………」
「文字、読めるんだね」
「……………」
その子どもは答えない。
「ねえ聞いてる?」
「………………………」
「日本語分からないとか……」
「……ぁ、」
次第に太宰の期待はしゅるしゅると萎み、代わりに苛立ちがむくむくと成長していった。人見知りだったら、ただ緊張していたのだったらまだいい。
 しかしその目に浮かぶのは怯えだ。何か云いたげに口をぱくぱくと魚のように開閉しているが、その唇が言葉を紡ぐことはない。恐怖が咽を詰まらせているのだ。
「ねえ、なんとか云ったら」
「…………」
「つまらない」
「っ、え、ぅ……」
「……もう、いいよ」
太宰は冷たく云い放つ。せっかく同じぐらいの歳の子がいたというのに。なんてつまらないんだろう。暇潰しにもなりはしなかった!
「君さ、ここの――――ポートマフィアの子なの?」
投げやりに問うが、もはや返事は期待していない。太宰はその時はすでに興味を失っていたからだ。
「もしもマフィアの子だとして、きっと君はお仕事が与えられてもすぐに死んじゃうんだろうねえ」と無感情に云えば、骸骨のような顔がカァっと赤くなった。そして恥じいるように持っていた本で顔を隠してしまう。しかし子犬の様に震える体と、本から覗くハの字を描く眉から今にも泣きそうであることがうかがえた。
(これぐらいで泣かないでよ。まったく、本当につまらないな)
太宰はわざと大きなため息をついて踵を返した。

 太宰は真一文字に口を引き結んで廊下を走った。本当は、廊下は走ってはいけないのだけれど、どうにも走り出したい気分だった。



 それから数ヶ月が経った。
 その日、太宰は新しい彼の後見人たる森鴎外に連れられポートマフィアが保護したという子どもたちの診療に立ち合っていた。
「この子たちは、どうなるんです?」
骨と皮ばかりの、ほとんど棺桶に入ってしまっているような少年少女を前に太宰は訊く。
「孤児院に送られることになると思うよ。でも、嗚呼、可哀想だね、こんなに痩せてしまって」
森医師は悲しそうな顔で云った。
(嘘つき。可哀想だなんて思ってないくせに)
太宰は目を細める。医師の悲しげな瞳の奥に、闇に生きる人間の持つ仄暗い輝きを見た。

 森は体の具合が悪くなった首領の主治医となり、組織内で頭角を表した闇医者だ。もともとは組織の人間ではなかったらしいというのは噂で知った。「今日から私が君の後見人だよ。よろしくね、太宰治君」と胡散臭い笑みで握手を求めてきた時はとても驚いたのをよく覚えている。

「マフィアが、子どもの世話をするんですね」
太宰は物珍しそうに云う。何を企んでいるのかと探っている態度だった。
「やだなあ。マフィアだって人間なんだよ。可哀想な子どもがいたら助けてあげたいと思うのが人間ってもんだろう」
「本音は?今回はどんな得があったんですか」
「……やはり君は優秀で、それでいてとても難儀な子だよ」
ふふ、と口許に手をあてて笑う森。楽しそうではあるが、実のところ太宰治という子どもの扱いに困っていたのだ。どうにも彼は子どもらしさがなくていけない。
「簡単な話さ。今回は協力者に誠意を示さなければならなかった。それを求められる前にね。だから責任を持ってマフィアがこの子どもたちにお家を用意してあげないといけないんだ。分かったかな?」
「誠意……」
「そうだよ。そういうのも大切なんだ。……必要とあらばね」
森は子どもたちに「さあ、隣の部屋に行っておいで。美味しいパンとジュースがあるよ」と笑いかけた。それを聞いた痩せこけた彼らは目を輝かせて隣の部屋に向かう。
(まるで犬みたい)
太宰は冷めた目でそれを眺めた。

「それに、こういう所で思わぬ拾い物をすることもある」
「…………異能力者ですか?」
「それもある。でもね、異能力に限らずマフィアに忠誠を誓ってくれて、且つ、なにがしかの能力に長けた子なら是非ともスカウトしたいじゃないか」
それを聞いて太宰にはピンとくるものがあった。
「この前本部の一室で、赤毛で髪の長い子を見ました。あの子も?」
おどおどとした、いかにも無能そうな醜い子。森は「ああ、あの赤毛の子ね」とすぐに察しがついたようだった。
「君と同い年の異能力の持ち主らしいよ。とても面白い異能だから、どのみち、しばらくは使うんじゃないかなあ」
まるで道具のような云いように少しだけ不快感を覚えるが「まあ、あの様子じゃあ捨て駒として使われるか、能力によっては死ぬまで馬車馬みたいに働かされちゃうんだろうな」などと考える。
「……気になるのかい?」
「まさか。あんな醜い子、どうでもいいですよ」
つまらない子。頭の悪そうな子。可哀想な子。
 太宰は脳みそから赤毛を追い払った。
 必要のない情報は棄てるに限る。



***



「ポートマフィアで拾われた子どもが小学校に通うことになったらしい」
そんな頓痴気な噂を耳にしたのは森と共に“社会科見学”をした約一ヶ月後のことだった。
 その一ヶ月間でマフィアが太宰の予想していたよりも多くの子ども――それも十に満たない身寄りのない子どもたち――を拾っていることを知った。
 森が彼らと太宰を引き合わせたのだ。
「ゆくゆくは彼らと同僚になるわけだしね。仲良くしておいて損はないよ」と森は云う。
「……皆、いなくなってしまうのに、合理的じゃないです」太宰は決まってそう返す。
 昨日そこにいた金髪の彼が「初任務」だと云ってそのまま顔を見せなくなることも、「ここから逃げ出したい」と泣き喚いた茶髪の彼女がいなかったことになっていることも、慣れてしまえばなんてことはない。
「悲しいかい?」
「悲しくなんかないです」
「素直じゃないね」
「本当に悲しくないだけ」
「君はロボットじゃないんだ。そういう感情も学びなさい」
「そして制御しなさい……ですか?」
「……君は悲しいぐらい優秀だ」
森は太宰の髪をくしゃりと撫でて「いつかお友だちができるといいね」と云った。

 そんな時だったから、噂を聞いて太宰は思わずくつくつと嗤ってしまった。だって、太宰はマフィアに拾われた子どもがどんな事情を抱えているか、どんな教育をほどこされているか、そして彼らの“平均寿命”を一ヶ月でよく知ってしまったから。
(ポートマフィアに拾われたワケありの子どもが小学校に通う! なんと馬鹿馬鹿しい話だろう!)
 しかし気になるのは一体全体、誰がそんな事を云い出したのかということ。
(まあ、ろくな子じゃないだろうけど)
わくわくと心が踊る。
 太宰はにやりと笑ってその子どもと遭遇すべく廊下を駆けた。勿論、廊下は走ってはいけないのだが楽しくて走り出したい気分だった。







「ところで太宰君。最近お友だちでも出来たのかい?よくXさんのところの子たちの寮をうろちょろしてるって聞いたけど」
「………………別に」
ええ、別にってことはないだろう!太宰君ってば反抗期なのだねえ!
 森が大袈裟に騒ぐ横で太宰はしかめっ面を作っていた。いつかバレるとは思っていたものの、いざ指摘されると鬱陶しいことこの上ない。
「ま、まさかXさんとこの子になりたいとか……!」
「違います」
太宰は小学校に通うマフィアの子どもと接触しに行っていた。

 噂を聞きつけた太宰は、まず拾われた子どもの教育に熱心なXに当たりをつけた。Xは特に戦闘能力に見込みのある子どもを拾う。そして住まいを与え朝から晩まで訓練を受けさせることで知られていた。聞き込みだけでも出来ればいい。そう思って子どもたちの住まいに忍び込んだ。
(でも、まさか侵入してすぐに当たりを引くなんて思っても見なかったけれど)
 結論から云えば太宰はすぐに目的の子どもと遭遇することが出来たのだ。

 侵入して十数分、考えなしに侵入してしまった太宰が裏庭で途方に暮れていると背後から軽い足音が聞こえたのだ。
 振り返ると黒い帽子を被りランドセルを背負った赤毛の少年がいた。帽子からのぞく、顎の辺りで切り揃えられた赤毛はゆるく波うち風と踊っている。
(紅茶色の髪、太陽の光を反射してる。
  きらきらしてて、不思議)
同じ赤毛の子どもでも、いつか本部ビルの一室で見た子とはあまりに違う。少年はあの子どもよりもずっと健康的で、その身からは生が迸っていた。

 この時の太宰は口をぽかんと開け大層な間抜け面をしていたのだが、次の瞬間にはこれでもかと云うほど目を見開くこととなった。
 少年は「よっ」という軽い声と共に垂直の塀を駆け上り、その上の鉄条網を飛び越えたのだ。
 走る姿はまるで塀に向かって重力が働いているようであり、鉄条網を飛び越える姿はまるで鳥の羽が舞うようだった。
「い、今の子だ。ランドセル背負ってたし」
太宰は呆然と塀を眺めた。話しかける暇もない、一瞬の出来事。
(……諦めて明日また来よう)

 太宰がすごすごと引き下がろうとしたその時、赤毛頭が鉄条網越しにぴょんと此方を向いた。
 少年はじぃぃと穴が開くほど太宰を見つめている。否、観察していると云った方が正しいだろう。
(風が、髪を、撫でてる。
    赤毛、なびいて、綺麗)
 太宰は後にこの瞬間は時が流れを止めたようであったと語る。無機質で何者をも拒む鉄条網の細く尖った黒い線の、向こう側とこちら側。時の止まった世界で少年と太宰だけが生きていた。

「あっ」

ふわりと彼が被っていた黒い帽子が風に拐われ世界が時間を取り戻す。慌てて少年は鉄条網を飛び越え塀に垂直に立って背伸びをした。
 なんとか帽子を死守した少年は見上げるようにして太宰を視界に捕らえ「しぃー」と口の前に人差し指を立てる。つられて太宰も「しぃー?」と人差し指を立てる。それに満足したらしい彼はニッと笑ってひらりと塀の向こうに消えた。
(……名前、聞き忘れた。明日また聞こう)
太宰は夢見心地でその場から立ち去った。
 その日は一日、紅茶色がふわりひらりと頭の中を飛び回っていた。次の日は彼に会えなかった。その次の日も、そのまた次の日も彼には会えなかった。

 そうして彼と会うべく同じ場所に足しげく通ううちに遂に森にばれたというわけだ。
「………小学校に通ってる子どもがいるって聞いて、会ってみたいと思ったんです」
「ふぅん」
しぶしぶ白状する太宰をにこにこと嬉しそうに見る森が、やっぱり鬱陶しい。
「それで、会えたのかい?」
「会えたというか、見かけはしましたよ」
「お友だちになれそうかな?」
「さあ……どうでしょう」
「良かったら紹介してあげてもいいんだよ」
「それは嬉しいなあ」
「わあ、見事な棒読みだね」
太宰は口をへの字にさせてぷいと顔をそむけた。
 秘密にしておいたとっておきの時間が秘密でなくなってしまった。そんな口惜しさがあったのだ。
(森さんに仲介してもらわなくたって自分から会いに行けるし)
そうして太宰は彼に会うべく塀の側に立つのだった。



***



 季節が廻り、太宰は十二になった。彼の少年とはささやかな交流を持ったがそれもいつしかなくなった。
「まったく、首領には困ったものだねえ」
はあ、と草臥れた勤め人のように森がため息をつくのを太宰はうろんげに見やる。最近の森さんはちょっときな臭い。そんなことを思いながら。
「森さん、おじさんみたーい」とQこと夢野久作がきゃらきゃら笑ったので「違うよ、Q。おじさんみたいじゃなくて、森さんはおじさんなんだよ」と訂正した。
 その日は森がQに“社会科見学”をさせる日だった。
「折角だから太宰君も行こうか」
その一言で太宰も同伴することになったのは大いに不満であった。森と歩くと大人が近づいてくるのがどうにも不快だった。
「おや、鴎外殿。ごきげんよう」
女性の声が響く。
「二人とも、挨拶して」
(ほら、これが厭なんだ。森さんといるとおべっか使いばっかり。
 この女性は……まあ違うだろうけど。今日は何人釣れるかな)
太宰は森が次期首領と囁かれ始めてから露骨に媚びてくる大人にうんざりしていた。
(森さんは私をよく使うだろうし私に甘いから、媚びてくるやつらは左遷してやろう)
そう思いながら森に促されしぶしぶ顔をあげた。
「っ、」
そして息を呑む。

 例の赤毛の少年がそこにいた。
 少年も少し驚いたようにこちらを見ていた。




「太宰君」
「あ、……え?」
どれだけ彼を見ていただろう。女性と少年はもう行ってしまった。それでも太宰はその後ろ姿を名残惜しげに見ていた。
「彼のことが気になるかい」
「……彼の、異能力を見たことがあるんです。あれは、重力に関わるものですか?」
「そうだよ。中也君の異能、面白いよね。触れたものの重力を操作するらしい」
「ちゅーや……」
「彼の名前だよ。彼はね、中原中也というんだ」
「中原中也」
太宰はその名を脳に刻み付けた。ささやかな交流の中でもお互い名乗らなかったから、ついぞ知ることはなかった彼の名前。
(中原、中原中也…
 中也、ちゅうや、ちゅーや……)
意識を彼に飛ばしている太宰に「太宰君、彼がここに来た時から気にしていたものね」と森が云った。
「え?」
「だって本部で見たって云ってたじゃない」
はて、と太宰は首をかしげる。本部で少年――中原中也を見たことなどない。なんせ太宰は中原とはあの塀の側でしか会っていなかったのだから。
「あの赤毛の髪の長い子は誰ですかって聞いていたじゃないか。あの時、ようやく君がお友だちが欲しくなったんだって思って安心していたんだけどなあ。あの後も彼が小学校に行ったって聞いて会いに行っていたみたいだし」
「は、…………はあぁぁ?!」
太宰は思わず体ごと振り返って中原を凝視した。その視線に気づいたらしい中原も振り返る。
 白い肌は日に当たり瑞々しく輝き、彼の吊り目がちの大きな瞳は太宰を捕らえ思慮深そうに瞬いている。子どもらしい丸みを帯びた顔を縁取る紅茶の色をした髪は艶やかで手入れが行き届いていることが分かった。
 やがて中原は何を思ったのかツンと唇を尖らせ拗ねたような顔をしてからすまし顔で太宰から目を離してしまう。
 あの日見た子どもとは特徴こそ同じであれど、とても同じ子どもとは思えなかった。
「………………うっそだあ」
太宰の呟きは誰に拾われることもなく空に弾けて消えた。