長編

Apple of My Eye

 馬鹿だったのだ。

 云い訳をするなら、その時俺は酔っていた。著しく判断能力に欠けていた。だから投身自殺なんて馬鹿なことをした。

 順を追って話そう。
 その日俺は酒を飲んでいた。葡萄酒をしこたま飲んで、酔っぱらって家に帰ってきた。それでも何時もと違ったのは上機嫌だったことだ。
 そうして鼻唄なんぞを歌いながら帰宅して、チーズを食べた。ミモレットだ。その干からびたみたいな橙色のチーズを見ていたら憎々しい元相棒を思い出した。何故か? それは「中也の髪の毛の色ってミモレットみたいだよね」と腹を空かせた彼奴が俺を見ながら云った次の日に俺の部屋からミモレットがごっそりなくなっていたのを思い出したからだ。俺の髪の毛の色がミモレットの色ってなんなんだ。死ね。

 ところがその時の俺は太宰を思い出しても不愉快になるどころか、何故だか非常に愉快な気分になったのだ。
 そしてこう考えた。
「太宰はいつも自殺未遂を成功させている。だから俺も自殺未遂をやってやろうじゃねえか」
馬鹿な話ではある。しかし、かえすがえす、この時の俺は酔っていたのだ。

 そして思い立ったが吉日とばかりに俺は寝室の窓をひょいと飛び出しマンションの屋上まで壁を歩いた。夜風が心地よく、満天の星空が酷く美しかったのは覚えている。
 横濱の夜景を眺め、フェンスの上に立ち空を飛ぶみたいに両手を広げて風を感じていた。

俺は今から飛ぶぞ、鳥みたいに!
いいか、奴だって空を飛んで、それで今の今まで生きてきた。俺にだってできるさ。
さあ、いくぞ。
3、
2、
1、
ジャンプ!

 こうして空を飛んだ。
 世界が物凄い早さで上昇した。いや、落下したのか。
 その時の俺は、やはり、なんだか愉快でならず、へらへらと笑っていたと思う。とても、身軽になったような心地だったのだ。いつも羽織るだけの外套と、トレードマークのような帽子が昇っていくのを眺めながら自分から余計なものがそぎ落とされていく感覚を味わう。こうやって、身軽になって、ただのホモサピエンスになってしまえる、この感覚は悪くねえなと思った。
 序でとばかりに手袋も捨て去ってしまう。ひらひらと天に向かう手袋を見て想起したのは「汚濁」だ。そこで俺は気が付いた。
 俺は、ずっとーーおそらく餓鬼のころ、それこそ太宰に出会う前、組織に拾われる前からーー重力に殺されたかったのだ。なんだ、そうだったのか、と妙に穏やかな気分で改めて世界を見てみようと首を動かした。

 しかしそれは失敗に終わった。ぐしゃりと音を立てて俺の首の骨が逝っちまったからだ。要するに俺の体は地球に引っ張られ地面に激突して無残な死体となったわけだ。即死だったんじゃないかと思う。俺自身に「死んだ」感覚がなかったから。マァ、そもそも死ぬ瞬間に「死んだ」感覚を味わうものかどうかも分からないが。取り敢えず横濱の高級マンションの屋上から身を投げ、首がぐしゃりと卵を割ったみたいな音を立てたのなら普通は即死なんじゃなかろうか。

 そんなこんなで俺、中原中也は二十二年の短い生涯を終えたはずだった。「重力に殺されたかった」という願望を自覚し、その数秒後に重力に従って地面と激突し首の骨を折って死んだのだから願ったり叶ったりではないか。マフィアなんていう反社会的な組織に属しながら自分の思う死を得られたのだからこれ以上の幸せはないだろう。

「中也、夕飯にしよう」
「…………」
「立ってここまで歩けるかい? ほらほら。あんよがとってもお上手ね」
「…………」
「わあ、暴れないでくれよ。揶揄かって悪かったって。君の体は崩れやすいんだから気を付けたまえ。また君の胃液……というか体液? をぶちまけられたらたまったもんじゃない」
「…………」

 それが、どういうわけだか現在俺は太宰とのドキドキ共同生活を送っている。最初に云っておくが、奇跡的に助かった訳ではない。
 俄には信じられないことだが俺はゾンビとなって生き返ってしまったのだ。

 マンションから飛び降りた俺は自分の体が悲惨な音を立てたのを最後に記憶がすっぽりと抜け落ち(恐らくこの間に死んでいたに違いない)、目を開けたら白い天井があった。上半身を起こし状況を把握すると、俺はベッドに寝かされていたらしいことが分かった。しかしいったい此処はどこなのか。俺が首をかしげると「中也!」と四年前まではよく耳に馴染んだ男の声がした。
 その必死な声に驚いてそちらを見ると不自然に両手を俺に伸ばしたまま、泣きそうな顔をした太宰がいた。やがて行き場のない両手で自分の顔を覆い、くぐもった声で「嬉しい」と云った。「私は幸せ者だ」とも云った。
 なぜ太宰がいるのか、此処はどこなのか。俺は死んでしまったのではなかったのか。俺は訳が分からず、ただただ首をかしげることしかできなかった。

 やがて太宰はばたばたと俺が寝かされていた部屋を出ると金髪眼鏡やら女医やら人虎やらを連れてくる。
 俺を見た奴等の顔は一様に驚愕と恐怖で強張っていた。
「あの、もしかして、この人は今、ゾンビ……ってことですか?」
ひょろい幻術使いがおそるおそる云った。
「まあ、そうなるね」
太宰は応えた。
 それを聞いて俺は慌てて自分の体を触った。そして生前とは違う、なんとも汚い体を見て気絶した。こんな汚い体が自分のものだとは信じがたかった。俺の脳は咄嗟に「此れは夢である」と判断し夢から覚めるべく意識を手放したのだ。

 次に目を覚ますと俺は別の部屋にいた。
「中也、起きたんだね。いきなり倒れるから驚いてしまったじゃないか」
そう云って笑う太宰が俺の知る太宰治史上一番優しげな顔をしていたから、反射で胃液のような体液をぶちまけてしまった。それからまた気絶した。

 その後、数回似たやりとりを繰り返し、太宰が「なんなんだよ君は!」とらしくもなく声を荒げたところで俺は落ち着いた。それを見た太宰は「まったく手のかかる……」とぼやきながら俺が探偵社の厄介になっている理由を話し始めた。

 その日、太宰は満天の夜空にいたく感動してこんな夜は入水に限ると散歩に出掛けたそうだ。そこで何を思ったか住宅街に足を運んだ。曰く「虫の知らせ」だそうだ。
 そして空から落ちてくる俺を見つけたらしい。
「だって重力遣いの君が、マンションから落ちるなんてふざけたこと、あるわけないって思うじゃないか」
太宰はそう不満げに唇を尖らせた。
 そこで、ふと俺は自分が自殺未遂に失敗したことを思い出し愕然とした。なんだか太宰に負けてしまった気分になってしまって凹んでいると、当の本人は心配そうに俺の顔を見るのだから気持ち悪くて堪らない。
「……潰れた君を見て、すぐに与謝野先生を呼んだ。彼女の異能を知っているかい? 外傷を治すんだ。だから君の怪我を直してもらった」
そして自嘲気味に笑う。
「動揺した私を心配してね、国木田君も現場に来てくれたんだよ。君を運んでくれたのは国木田君だ。
 けどねえ……君は与謝野先生の治療を受けても目を覚ますどころか、その肉を腐らせていった」
それ完全に死んでるじゃねえか。とか、よく探偵社のやつらは死体をベッドに置くことを許したな、とか云いたいことは色々あった。
 しかし、太宰の「心臓が一度止まってしまったのだけどね。肉が腐り始めたと同時に心臓も動き始めてしまったから、君を殺すことができなくて」という言葉に全て持っていかれた。
 肉が腐っているのに心臓が動いているとは、どういうことなのか。それじゃあ本当にゾンビではないか。
 ショックを受けている俺に太宰は「おそらく、君は何らかの異能にかかっている」と告げる。
「死体を動かす能力……いや、死を目前にした人間をゾンビ化させて生きながらえさせる能力かな。『武器』を作る能力としてはもってこいだよね」
 そうだよな、異能じゃなけりゃあ、死体が動くはずねえし人間はその意識を保ったままゾンビになるはずがない。
「だから、異能者の特定と異能の正体の究明のために、暫くは私と住んでもらう。森さんには話をつけてあるから安心しなよ」
そう云って太宰はにっこりと笑った。
 俺の(おそらく腐っているのであろう)脳みそに「絶望」の二文字が踊った。いっそ、さっさと殺せ。

 こうして太宰との共同生活が始まったわけだが、ゾンビになるというのはなかなかどうして不愉快なことだ。
 まず、俺の体は汚い。腐りかけている。毎朝鏡を見てはげんなりする。体中を巡る血液……のような体液は緑がかったヘドロのような色をしているから俺の肌はそれを反映させて色が悪い。そして、おそろしく脆い。この前なんて転んで腕が潰れた。そりゃあもう笑っちまうぐらいにグッシャリと。それを見た太宰がこの世の終わりのような悲鳴をあげていたから余計に笑えてしまって、笑ってしまったら吐血してしまった。これには流石の俺も気分が悪かったし彼奴は半ば発狂していた。
 ちなみに俺の腕は探偵社の女医が治してくれた。死体の怪我を治すってえのは医者としてどんなモンか、一度聞いてみたいものだ。

 此れだけでも最悪な事態であるのに、おまけに死人に口なしとでもいうことなのか、意識はこんなにも生前と変わらないのに口がきけない。何か意味のある言葉を発しようとしても口から出る言葉は獣のような唸り声ばかりである。ならば筆談はどうかと思ったが、ペンを手にしているのに、言葉は頭に浮かんでいるのに、文字にすることができないのだ。これには俺もほとほと困ってしまった。
 一番の驚きは太宰がゾンビになった俺の世話を甲斐甲斐しく焼いていることだが、此れはコミュニケーションの叶わない俺を「意思を持たぬ動く死体」とみなしているからなのだ。手前のご自慢の脳みそを使えと怒鳴ってやりたかったが、まあ、いいだろう。

 太宰は何をするにも必ず俺の正面に座ってゆっくりと「手本」を見せる。動く死体だから日常的な動作ができないと思っているのだ。実際問題、不本意ながら腐った体では細かい動作が困難な上に「体の動かし方が理解できない」ので太宰の動きを真似る。

 たとえば食事の時。太宰はゆっくりスプーンを使ってスープを飲んでみせる。俺はそれを真似し、危ないながらもなんとかスープを飲む。それができると「うん、上手だね」と太宰が云う。まるで幼い子どもに云うみたいに。
「中也はテーブルマナーを知っている癖に、敢えてそれ崩して食べていたんだ。だから君は丁寧に食べてみようじゃないか」
五月蝿ェな死なすぞ。
「本当なら私が食べさせてあげられたらいいのだけど」
そう云う太宰はまったく奴らしくないので気持ちが悪い。中原中也に対する態度ではないその柔らかい笑みが気色悪くて堪らないのだ。
「でも、私が触ってしまったら異能が解除されてしまうもの。そうなったら、中也は、」
太宰は思い詰めるみたいにスープを睨み付けていた。俺は辛気臭い奴の顔を見るのが嫌でカチャカチャとスプーンを鳴らした。さっさとスプーンを動かせ、じゃねえと俺が食事にありつけねえだろう。

 食事の後はたいていシャワーを浴びる。
 太宰は脱衣の手本も見せる。何が悲しくて太宰のストリップショーなんざ見なければならないのかと思うが、いかんせん俺は手本がなければ自力で服を脱ぐことができない。背に腹は代えられぬと諦めている。太宰だって俺のストリップショーなんざ見たくないだろうに、ご苦労なことだ。ちなみに俺が着ているのは全て太宰の服だ。もともとの俺の服はずたずたになってしまっているので捨てられちまったらしい。よってサイズが大きいので脱衣は容易だ。ちくしょう!
 そうやって全裸になって、浴室に入る。野郎二人が真剣な顔をして向かい合い、体を洗うのだ。なかなかにシュールな絵面だろうに残念ながらそれを指摘してくれる奴はいない。

「じゃあ泡流すよ」と太宰が云う。ボディソープの泡を落とすのは太宰の仕事だ。それというのも俺がシャワーを使うのは心もとないらしい。
 それぐらい出来るとムッとするが、ざああ、とシャワーを浴びせられるのは好きだった。日々の汚れがごっそりと落とされていく感覚は気持ちがいい。目を瞑って少し上を向けば「君、犬みたいだね」と太宰に笑われた。ご期待に応えてシャワーの後に犬っころの様に頭をふって水を飛ばしてやった。
「わあ、汚いなあ」と太宰は文句をたれていた。
「しかし、君の肌はいつみてもグロテスクだねえ」
ンなことは自覚してらあ。
「中也は、あれでいて結構綺麗な肌をしていたのだよ」
そう云って太宰は自分の体を流し始めた。俺は一応、彼奴の邪魔にならないように端の方で身を縮こませながら、すんすんとボディソープの香りを嗅いでいた。
 俺ではない他人の匂いがするのが新鮮だった。

 それから暫くが経ったある夜のことだった。
 太宰は俺の前に立って、真っ青な顔で、「中也」と呼んだ。
「ねえ、中也。私、そろそろ限界だよ」と太宰が云う。
「君に触れたいんだ。どうして私は君に触れられないんだろうか。どうして私だけが触れられないのだろう」
どうして、どうして、と繰り返す太宰は、憐れで見ちゃいられなかった。
 だから、こいつの部屋から出ようとした。こんな彼奴を見るのは不愉快であったし、そういえば俺はこの部屋から一歩も出ていないと気付いて夜風に当たりたくなった。
「……どこに行く気だい?」
しかし俺が背を向けると太宰は地を這うような声を出した。背後に感じる殺気に肌が粟立つ。
「君が、外に出て、」
ゴツン、と後頭部に固い感触。よく知っている感触だ。手前、堅気になったんじゃねえのかよ。銃刀法違反で捕まるぞ。
「もしも中也の体が崩れてしまったら、私は君を殺す。君を殺して、私も死ぬ」
さしもの俺も、これにはカチンときた。殺してしまえるんだったら、さっさと俺に触って異能を解除すればいい。どうせ異能者を確保し異能の正体が分かったところで俺にはなんのメリットもなければ俺自身の利用価値がなくなったらお払い箱なんだ。

 俺は太宰に触ってしまおうと決めた。そうすりゃ、すぐにお陀仏である。くるりと太宰の方を振り返ると真っ黒な拳銃を持った真っ黒な瞳の太宰が餓鬼みてえな顔をしてこっちを見ていた。そっと銃口に触れ、つう、となぞる。そして震える奴の手を触ろうとした。
 しかし太宰は俺が触れてしまう前に拳銃を投げ捨て「何故死のうとする」と叫んだ。

「何故死のうとする」だって?!

 俺は可笑しくて可笑しくて、無性に腹が立って仕方がなかった。だってそうだろう? それを手前が云うのか、死にたがりの手前が。
 そして俺はピンときた。此奴は本当に死にたいわけじゃなかったのだ。太宰がそれをどんなに否定しようが、この結論は俺の中での真理だ。だってこんなに簡単に人は死ぬ。いとも容易く自らの命を捨てることができる。
 じゃあ何故こいつは「未遂」を繰り返していたのか?
 それはひとえに臆病だからだ!
 死に焦がれるくせに、臆病ゆえに死ぬことの出来ない。死に対して怠惰なのである。
「手前は本当に駄目な奴だなァ」
こう云えたら良かったんだが、死人に口無しなので仕方がない。
 代わりに俺は、とことこと歩いて太宰のベッドに倒れこんだ。そして目を瞑って眠る体勢にはいる。「何処にも行かない」という意思表示だ。まったく、俺が一番割りを食ってるってのに何故太宰が一番辛そうにしやがる? エゴイストめ! 俺は死ぬ気が無くなってしまった。

 太宰はすんすんと鼻をならしながら「ありがとう」と云った。それは、いったい何に対して発せられた言葉なのか、俺は悶々と考えながら眠りについた。

 眠りにつく直前に太宰は俺に「ねえ、君。私、中也のことが好きだったみたいだよ」と云った。
「君を揶揄かって、怒られて、嫌いだって罵りあって、触れ合いたいんだ。
 それなのに、私は君に触れられない。私は君に触れたら、死んでしまうじゃないか。
 …………君が憎いよ。君はもはや中也じゃないのに、こんな腐った体なのに、間違いなく中原中也なのだから」

 手前、いくら俺が中原中也であって中原中也でないと思っていたとしても、それを中原中也の死体に云うのか。

 嗚呼、死体ってのも楽じゃねえなァ。

***

 数ヵ月が経った。体感で数ヵ月だ。
 太宰の部屋に探偵社の主力、というか主軸の自称名探偵江戸川乱歩と国木田独歩がやってきた。そして、俺のいる前で作戦会議なんぞを始めた。
 おいおい、それでいいのか探偵社よ。
「…………こいつがいるのに此処でやるんですか?」と金髪眼鏡が云う。まったく同意見だ。
「いいんだよ」と探偵。
「マァ、今の彼はポートマフィアの中原中也とは言い難いですからね」と太宰。「なんせ、彼に思考する能力が備わっているかも怪しいのですから」
おい、この野郎、その優秀な筈のおつむはおがくずにでもなっちまったのか。俺はカチンときてふて寝した。
「……ふうん」と探偵はどうでもよさそうに云って「で、話をもとに戻すと、彼に異能をかけた人間は現在この素敵帽子君の部屋に居座っている。彼の隣の部屋を借りて異能をかけるタイミングをうかがっていたんだろう。素敵帽子君はまんまと隙を見せてしまったんだね」
「流石中也。ぼんやりしている。まったく、駄目駄目マフィアですね」
太宰の言葉に俺がピクリと反応したのを見て探偵が目を細めて俺をじろじろと見た。俺はこっち見んなとガンを飛ばしてみた。
「……じゃあ、私がケリをつけてきますよ。生け捕りにすればいいんでしょう?
 囮作戦といきましょうか。私が囮になって、合図を出したら国木田君が突入するんだ」
どうです、と太宰。それならばあれをこうして云々かんぬん。三人は俺の前で異能者を捕らえるべく作戦を組み立てていく。
 俺はというと、遂に自分の命のタイムリミットを知って、どういう顔をしたらよいのか分からなかった。

「じゃあ、行ってきますよ」
「もう行くのか」
立ち上がった太宰に金髪眼鏡は戸惑ったように声をかける。
「……こいつに、何か云わなくていいのか?」
俺を指さし眉を顰める。余計なこと云ってんじゃねえ。
「やだなあ、国木田君。これに話すことなんてあるわけないじゃないか。
 …………嗚呼、『私が異能者に触れるから異能が解除されて君はもとの状態、つまり只の死体に戻るよ』と云えばいいのかな」
「太宰!」と金髪眼鏡が声を荒げる。
 太宰はひらひらと手を振って「遅くても二時間後には中也の部屋の前に待機しておいてくれ」と云い残し出ていった。

 しん、と静まり返る部屋。
「素敵帽子君」と名探偵は俺を見た。
「君さ、意識はハッキリしているんでしょ」
ご明察。俺は頷こうとした。でも頷き方が分からなくて止めた。
「太宰はきっと、死ぬ気だよ」
………はぁ?
 俺は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしていたと思う。

「復讐のために異能者を殺すことは探偵社のことを考えて思い止まるだろうけどね。異能を解除させて、君が只の死体になるところを見るのを極端に恐れているのさ。だって間接的に君を殺すことになるからね。それも、『中原中也を害さんとする者に利用される』という最悪の形で。
 だから太宰は君の意識がはっきりとしていることに目を瞑っているんだ。いいかい、これは太宰の本能が自身を守ろうとしているんだ。それに気が付いてしまった時、太宰は壊れてしまうだろうから。
 しかし君が死ぬことは火を見るよりも明らかだし、腐りゆく君の面倒を見ることに限界を感じている。
 ……これだけ云えば、君なら太宰が何を考えているか想像つくんじゃあないのかな? 太宰は死ぬ気だよ。君の死を見ないために」

探偵の目が俺の濁った眼球を覗きこむ。俺はゆっくりと探偵の云ったことを咀嚼した。咀嚼したが、あいにく俺に太宰の思考回路を想像しろというのはどだい無理な話である。それでも、奴が俺を言い訳に死のうとしていることだけは伝わった。
 奴は俺から死を取り上げた挙げ句に世話を焼ききれなくなったら捨てるのか。責任が持てない命を拾ってんじゃねえぞ。小学生だって分かることだ。世話が焼けないのに拾った犬猫はもとにあった場所に返してきなさいって母親に言われるだろうに死体なんてもっての他だ。拾うもんじゃない。

「……探偵社に件の異能者を追うメリットはない。それでも異能者を追っているのは太宰の為だ。太宰が壊れてしまわないように、太宰の好きにさせていた。
 けれどこうなってしまっては話は別だ。君が太宰の自殺を止めさせてくれないかい。覚悟をつけさせてやってくれ」
名探偵は、言外に俺の命と引き換えに、と云っていた。俺の今の体じゃあ外に出ることだって命がけであるのに戦場などもってのほかだ。
 それを、太宰の為に、戦場までピクニックに行って。奴に「中原中也の死」を見せろと云っているのだ。

 なるほど、なかなかにイイ案だ。
 死に対し怠惰な人間にくれてやる死は、決して奴が求めるような物であってはならない。奴はせいぜい野良犬に死体を食われちまうような惨めな死か、いっそのこと家族に見守られながら穏やかな死でも迎えるがいい。奴に逃げ場としての理想的な死を与えてはならない。そんなこと、俺が許さない。
 どうせ数時間後には死んでしまうのだ。これぐらいは許されるだろう。

「……今ごろ、太宰は異能者に会っているだろう。行ってくれるね?」
ああ、勿論だ。俺は返事の代わりにガツンと側にあった椅子を蹴った。
「じゃあ俺と来い」
金髪眼鏡はひょいと俺を俵のように担いで駆け出した。別に俺は構わないが手前、結構な不審者になってる自覚はあるのか?
 まったく、どいつもこいつも太宰にはもったいない。

 金髪眼鏡はその体格以上の体力の持ち主らしく、生前は体重が六〇はあった俺を俵担ぎで横濱の街を駆け抜け(不審者だ!)高級マンションの階段を駆け登り俺の部屋のドアを蹴り開けた。ちくしょう、非常事態とはいえ弁償しろよ。

「国木田君……と、中也?!」
俺の部屋では異能者と太宰が対峙していた。ああ、そういえば太宰は合図があったらと云っていたのに、金髪眼鏡は気にも留めず突入したな。あれだけ話し合っていた作戦をパァにしたわけだ。此奴の隣りに立つには金髪眼鏡ぐらいの命令無視をすべきだっただろうか。
「なんで、中也を連れてきた」激昂する太宰。
「けじめだろうが」と金髪眼鏡。
「国木田君が作戦を……予定を狂わせるなんて意外だなあ」
「もともと乱歩さんと作戦を立てていた。問題ない」
「つまり私は仲間はずれにされていたってこと? 酷いじゃないか」
異能者そっちのけでにらみ合い火花を散らす二人に、なんとなく両親の喧嘩に立ち会う餓鬼の気分を味わった。なんかすげえ気まずい。いや、いやいや、俺は金髪眼鏡の味方だ。

 異能者はというと、闖入者である俺と金髪眼鏡を注意深く観察している。おい、手前らこの異能者をどうにかしろよ。
 俺は獣のような唸り声をあげる。驚いたような顔をして俺を見る太宰と金髪眼鏡。異能者は目の色を変えて俺の息の根を止めるべくナイフを構えフローリングを蹴る。
 反応が早かったのは金髪眼鏡。異能者から遠ざけるべく俺を蹴り飛ばし手帳からナイフを取り出して応戦した。太宰は蹴り飛ばされた俺の様子を見にすっ飛んでくる。なるほど。外からの敵は父親が、母親は赤ん坊を守る。赤ん坊は母親に近づく。母親は慌てて逃げる。
「ちょっと!」
それは此方の台詞だ。母親が赤ん坊から逃げてどうする。
「君は死にたいのかい?!」と太宰が叫ぶ。ああ、そうか。こいつに触ると異能解除されるんだった。忘れていた。
「太宰ィ!」
金髪眼鏡も叫ぶ。
「避けろッ!!」
俺は咄嗟に太宰を突き飛ばそうと腕を伸ばした。奴に向けられた殺意に体が勝手に動いていた。いやはや、組合戦の時も感じたが、長年組んでいると相棒が怪我をしそうになると飛んでいってしまうのは如何ともしがたい。奴が自力で避けてくれればいいのだが残念ながら太宰は弱いのだ。
 伸ばされた俺の腕に太宰はびくりと肩を震わせ距離をとる。ピッと俺の頬に線が引かれダラリとグロテスクな体液が漏れた。直後、パリンと硝子の割れる音。
 一応説明しておくと、俺の部屋は硝子張りで横濱の絶景を一望出来る。二十二の若造には勿体ないと老害爺には云われたが他ならぬ首領が薦めてくれた部屋だ。何故こんな良い部屋かと云えば、それまでの俺の功績と組織の本部ビルに近いため有事の際にすぐ駆けつけられるからだった。

 閑話休題。
 兎も角、その硝子張りが小気味良い音を立てて粉々になった。
 異能者は俺と距離を詰め首を掻き切るべく腕を振りかぶる。しかし俺はその鉄の味を知ることはなかった。金髪眼鏡が異能者の頭に拳銃を突きつけたからだ。頼りになるのは母親ではなく父親だったわけだ。
「おとなしくしていれば危害は加えん」
金髪眼鏡は静かに云った。ひゅ~! カッコいいねえ。まるでヒーローみたいだ。
 金髪眼鏡が放つ殺気は何処までも澄んでいて、俺には少し毒だった。異能者にもそれは同じらしく、顔を般若のように歪めさせている。
 そして「もはや此処まで!」と叫び自らの手首を切った。軽く云えばリスカだ。しかし勢いがあった。血飛沫は天井まで届いた。

 此処でおさらいだ。いったい俺はどこに居たと思う? 答えは奴の目の前だ。
 つまり俺は奴の血飛沫をもろに浴びた。情けない話だが「ぎゃあああ」と悲痛な叫び声をあげて俺はよたよたと一歩、また一歩と後ずさる。奴は俺の両目に血飛沫を浴びせやがったのだ。ごしごしと手で血を拭うがふらついて仕方がない。ぼやける視界で確認できたのは血溜まりの中に倒れる敵と、慌てふためく金髪眼鏡。太宰は驚いたように目を見開いていた。
 さあ、太宰は何に驚いていた?
 俺はこの時完全に失念していたのだが、俺が後ずさった場所には何がある?

 小気味良い音を立てて割れたのは硝子。俺の部屋は硝子張り。要するに何もない。
 ぐらりと回転する視界。これで終いなのか。俺は静かに目を閉じた。
「中也!!」
しかし太宰の慌てた声と共にぐいと引っ張られる。太宰が俺を引き戻したのだ。間一髪、太宰に助けられた。母親もやるときはやる。

 しかしその瞬間、ぱり、と俺の体が音をたてた。太宰が掴んだ俺の手首を見る。異能が解除されているのだろう。触れた場所から緑の蝶が浮かび俺の全身を覆っていく。その緑はエメラルドの輝きを放っていた。
 俺は、死ぬのか。なんと、まあ、綺麗じゃないか。闇に生きた人間には美しすぎるほどに美しい最期だ。
「あ、ああ、ああ……逝ってしまうんだね」
エメラルドの蝶に包まれた俺を見る奴の顔は絶望を描いていた。ざまぁねえな。
俺の最期は太宰治の手によってもたらされた。

 太宰の手は、死んだ俺の体にはひどく温かい。
 その温かさに、一つ、気付いたことがあった。俺が二十二まで生きていたのは太宰治という男がいたからだ。俺は本来ならば、異能を暴走させ死ぬはずだった。世の中にはその異能ゆえに幼くして死んじまう奴なんぞ掃いて捨てるほどいる。それなのに俺は餓鬼の頃から暴走を止めるいけすかねえ野郎がいたから死なずに済んだ。俺は本当は、初めて汚濁を使ったあの日に死ぬはずだったんだ。それが太宰のおかげで死に損なってきた。
 俺はずっと、死ぬべき時を逃してきたのだ。だから太宰に奪われた俺の死を太宰から返してもらった。カエサルの物はカエサルにって云うだろう?

 俺はゆっくり目を閉じた。今度こそ、死ぬのだろう。身体を覆うエメラルドの蝶が飛び立った時、俺の死が訪れるのだ。

 足下からぱた、ぱた、ぱたりと次々と蝶が飛び立つ。俺は覚悟をきめた。

 しかし、神様というのはとことん俺に空回りさせたいらしい。
 全ての蝶が飛び立った気配に俺が目を開けるとそこにいたのはよく知った嫌みなほど整った顔。
「…………え?」
「…………は?」
俺と太宰の間抜けな声が響く。
 
 なんとびっくり。俺の体はもとに戻った。

***

 あれから数日が経った。
 どうやら俺にかけられた異能は生きたまま肉を腐らせるというものだったらしい。
 なるほど。俺は投身自殺の末、探偵社の女医の助けによって一命をとりとめたものの異能により仮死状態に陥りゾンビ化していたということだ。
「君ってさぁああ、仮にも組織の幹部なんだからそう易々と異能にかかるなんて馬鹿なのかい?」
いや馬鹿だったね本当のこと云って悪かったよ、と太宰は鼻で笑った。
 俺の額に青筋がたつが、なんとか怒りを抑える。

「それで、今日は何の用で来たわけ?」
太宰が訊く。俺と奴は今、探偵社の入ったビルの喫茶店にいた。
「世話になった女医と金髪眼鏡に礼を云いたくてな」
ふうん、と太宰は探るような目を向ける。
「……私に感謝の言葉はないのかなぁ」
にんまりと嫌らしい笑みを浮かべながら「腐った中也の世話を焼いてあげたのはこの私だよ? まあ君は覚えていないのだろうけれどね。それはそれは大変だったんだ。
 なんて素晴らしい献身だとは思わないかい」
俺を煽り立てるように大仰な仕草で奴はそう宣う。
 いつもだったら俺が怒りに任せて奴に蹴りを入れようとしたり殴ろうとしたりした末に悪口の応酬になっていただろう。
 
 しかし、今日は一寸違うのだ。
「手前にも感謝してるぜ」
「え」
「だから、ご褒美持ってきてやった」
「は、何? …………気持ち悪いのだけど」
太宰はその端整な顔を歪めていた。この先、もっと奴の顔が歪むことになると思うと愉快だ。
 
「ほらよ」と俺は両腕を広げる。
「はあ?」と太宰は怪訝な顔をした。
「俺に触れたいんだろ?」
触らせてやってもいいぜ、と奴が俺に厭がらせをする時の、あの人の神経を逆撫でさせるような粘着質な声を真似てみる。太宰は目を見開いて魚のように口をぱくぱくさせている。すげぇ間抜け面だ。あぁ、こいつ、黒目でかいな、なんてことを思いながら次の爆弾を投げつけた。その攻撃力はいかに。
「だって手前は俺のことが好きなんだもんなァ?」
ああ遂に云ってやった! 
「死に損ないの体でも意識はハッキリしてたんだぜ。随分としおらしかったじゃねえか。そんなに俺のこと大好きだったなんて知らなかったな」
にやけが抑えきれない。さぞかし今の俺は厭らしい笑みを浮かべていることだろう。
さあ、太宰はどう出る。
「………ぅ、う、う、」
「う?」
「うわ、うわ……」
この時の太宰の顔は見事な赤で大層愉快な顔面だった。奴は「うわ、うわ、うわ」と壊れたレコードの様に繰り返し、やがて絶叫し逃げた。

 俺は、ぽかんと太宰がいた場所を見る。
「……火事場の馬鹿力ってやつか?」
奴は異常に早かった。組織の中でも体術は中堅以下だった奴が、信じられない位の俊敏さでもって逃げ出したのだ。俺ですら反応が遅れた。
「ありゃあ、照れ隠しか……?」
ぽつりと呟く。
 照れ隠し、照れ隠し、太宰が照れ隠し。俺はだんだんと愉快になってきて爆発させるように大声で笑った。ここ最近で一番声を出して笑ったのではないだろうか。だって、あの太宰が俺に無様にも照れ隠しで叫び声をあげ尻尾を巻いて逃げたのだ。
 愉快で愉快でしょうがない!

 だから盛大に照れた太宰がその後、悪辣かつ派手に、そしてかなり頻繁に厭がらせをするようになったが許してやることにした。
 それに、どうやら俺はゾンビになっている間に太宰にかなり絆されていたらしい。加えて元来ロマンチストであった俺はあの夜の太宰の言葉に感化され、大変不本意ではあるものの太宰と同じ感情を抱くに至ったわけだ。いやはや人生何があるか分からない。ストックホルム症候群の可能性も考えたが、そんなものは些事である。
 よって、数々の厭がらせへの謝罪があった暁にはこれを奴に伝えてやってもいい。あくまで謝罪があったらの話だ。どうせその日は来ないだろう。別に来なくたっていいのだ。だって甘ったるい関係なんざ求めちゃいない。
 きっと、俺たちのどちらかがおっ死ねば素直になれるんだ。
 奴は俺にとって唯一無二であるが、わざわざ甘い言葉のラベルを貼ることなんてないのだ。

 …………まあ、太宰の木偶が、泣いて求めてきたら考えてやらないこともないが。
 俺は太宰が泣きつくところを想像してくっくと喉を鳴らした。そんな愉快なものを見せられたら、仮に謝罪がなかったとしても気分が良くなって色好い返事をしてしまうかもしれない。

***

 中原中也の忠誠を疑ったことは一度たりともなかった。彼は首領たる森鴎外の命ならどんな任務だって完遂させる。それは組織への忠誠というよりも、むしろ森に対する忠誠と云えるものだった。
「ねえ中也君」
「はい、何でしょうか」
「例の異能者が自害したというのは本当かい?」
「ええ。獄中で舌を噛みきったと聞いています」
だから、俯きがちに報告する彼を信じることにした。きっと、彼に考えがあってのことだったのだろう、と。
「ところで首の調子はどうだい?」
「ええ、痛みはあまり感じません。日常生活や戦闘には問題ないかと」
中原は革の首飾りをそっと撫でながら微笑んだ。
「首領のおかげです」
その顔は蝋のように白かった。

 一時的に武装探偵社に身を寄せていた中原が組織に復帰してから約一か月が経った。その間に彼は異能の「副作用」とも呼べる首の痛みに悩まされていた。身投げした時にぐしゃりと音をたてて潰れた首が、酷く痛むのだ。それこそ発狂して死を望みたくなるほどに。そのために梶井らが作り出した薬を革の首飾りに仕込み投与しているのだ。おかげでただのファッションであった首飾りは中原の今や命綱である。加えて気を緩めるとぐんにゃりとおかしな方向を向いてしまう首を正常な位置に据えるための特殊な加工を施してある。
「何から何までご迷惑をおかけしてしまって……」
中原は申し訳なさそうに眉をハの字にさせた。森にはしょぼんと垂れた耳やら尻尾やらが見えるようだった。
 思えば中原は幼い頃からその感情の起伏が表に出やすく、よく百面相を披露していたものだった。
「よく頑張ったね」
そう云って頭をぽんぽんと軽く撫でれば「子ども扱いはやめてください」と云いながらも頬を紅潮させていた。尻尾があったらちぎれんばかりに振られていたんだろうと思うと面白くて、ことさら子どもの躾のように飴と鞭を使い分けた。その度に彼は顔を赤くさせたり青くさせたりしていたものだった。

 ふむ、と森は人差し指を顎に当てて考える。
「中也君、一寸こっち来てくれるかな」
手招きをして側に呼び「しゃがんで」と命じる。中原は疑問符を頭上に並べながらもそれに従った。そして彼が幼かった頃と同じようにその柔らかい赤毛を撫でた。
「えっと、首領……?」と困惑した声を出す中原に「よく頑張ったねえ」と昔の様に褒めてみる。
「は? ……え、ちょ、ぼ、ぼす……」
おお、と森は内心で感嘆する。昔は「子ども扱いしないでください」とムスッとした顔をしていたというのに、今は唯々照れている。素直になったものだと感慨深く忠実な部下の頭を撫でた。
「うんうん。君はよく頑張っている。それは私もよく知っているよ。
  ーーただね、君の体は酷く脆くなってしまった。君は戦場でこそ輝くんだ。我々組織は君を最大限に活かすためには、君自身もその体を大切にしなさい」
森はそう云って、そっと頬に指を添えた。そして、その温度を確かめるように、掌で包み込む。
(ああ、なんて冷たい)
幼い日のように、赤くなったり青くなったりしない白い肌。ひんやりと冷たい夜の温度だった。
「中也君、無粋なことを訊いても?」
森の言葉に中原は少し驚いた様に目を見開いて、子どもの様にこくりと頷いた。
「君は、組織に忠誠を誓い組織の礎となる覚悟があるかい?」
それを聞いた中原はそんなこと、と笑う。
「そんなこと、今更ですよ」
「……そうだったね、失礼なことを云ってしまったかな」
すると中原はふるふると首を振って表情をやわらげた。
「俺は、この先どれだけ生きるのか見当もつきませんが、首領の愛するこの街のためなら喜んで組織の礎になります」
その言葉に森はそっと目を閉じた。ほう、と息を吐き「もう一つ訊いていいかい」と云う。
「君は、何故死のうとした?」
その質問に中原は虚をつかれたような顔をして「首領も太宰と同じこと云うんですね」と呟いた。
「俺は、太宰の木偶と違って死を望んだりなんかしませんよ」
そう云って今度はムッとしたような顔をした。
「太宰のやつとは違うんですから!」
「でも、君、件の異能者に死を与えたろう? 舌を噛んで自害したそうだが、あの男の異能いかんによっては、君は、ここにいない」
そう指摘すると中原はぐっと答えに詰まってしまった。

 中原がマンションから身を投げた時、彼にかけられていた異能は二つあった。一つは探偵社との戦闘によって死亡した異能者のもの。「生きたまま肉を腐らせる」異能だ。
 そしてもう一つがポートマフィアによって捕えられ、舌を噛み千切って自害したという異能者のもの。彼の異能は終ぞ詳らかにはされなかったが、拷問によりその断片を知ることができた。呪いの類のそれは、おそらく「対象者が死ぬ時、その苦しみを永遠に繰り返す呪い」だ。対象者は一時的にその時間を止め、発狂し自らその命を絶つまで永遠に死の苦しみを味わい続ける。しかしその発動条件と解除条件は分からずじまいだった。
「異能者が死んでも異能が解除されないということは、Qのソレと同じで呪いの本体があるのかもしれませんね」と中原は他人事のように云った。

 中原はマンションから飛び降り、絶命した。彼が考えている通り、即死のはずだったのだ。しかし、ここで件の異能が発動され死の瞬間に彼の体は時を止めた。そして与謝野の異能により外傷は全て治され、同時に生きながら肉が腐るという異能も発動した。どうやら後者の能力は太宰により無効化されたが呪いの方は、やはりQの呪いと同じように根源を無効化しなければならないらしい。
 こうして中原の体は死の瞬間のまま時を止めている。彼の心臓はもはや動かず、彼の体には血が通わない。死体の様に冷たく、感情によって頬を紅潮させることも、顔を青くさせることもないのだ。それどころか、彼は呪いが解け死を迎えるまで生き続けることになってしまった。中原自身は「死なずの呪い」だと薄く笑った。

「何となくなんですが、俺は、まだ死なないと思ったんです。けれど、奴がいると俺の死が奴の手にあるような気がしてしまって。それが気に食わなくて……気がついたら奴の猿轡を解いていました。申し訳ございません」
中原は頭を垂れて許しを乞う。
「私は怒っているわけではない。……ただ、君が死にたがっているのかと思ってね」
「だから! 俺は太宰じゃねえんだから死のうなんて思いませんって!」
ムキになっている彼にようやく森は笑顔を見せた。
「でもね……」と森はそっと囁いた。
「死にたくなったら、いつでも云いなさい。苦しまずに、私が死なせてあげるから」
「ありがとうございます」と中原は嬉しそうに云う。「でも、俺は死ぬまで生きようと思っています」
そして、はにかみながらお恥ずかしい話ですが、と照れたように頬を掻いた。
「恋をしているので、まだ死ねないんです」
それを聞いた森はきょとんと呆け、それから声を出して笑った。
「なるほど、恋! そうきたか!」
中原も「向こう三十年ぐらいは、死に損なってみせますよ」と自信ありげに加えてつられるように笑った。

fin.