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Stranger

 首領となった太宰が手始めに着手したのは粛清だった。先代が泳がせていた“好ましくない者達”の粛清だ。中原は漠然と血の嵐が吹くことを覚悟していた。つまり、暗殺と反乱と混乱。しかし実際は裁判により淡々と粛清がなされた。狂気の裁判だった。

 それを主張したのは坂口だった。
「処分するにも筋を通さなくてはなりません」
いかにも文官らしいと中原は嗤った。
「まどろっこしいな。毒薬か弾丸か。それでいいだろう」
中原の言い分は闇の人間のそれだ。
 結局太宰は坂口の主張通り裁判を行った。しかし粛清であることに違いはない。捏造された証拠と形だけの裁判は恐怖を煽った。
 恐怖と疑心暗鬼に包まれた組織は非常に危うい。クーデターさえ起こりかねないと中原は唇を噛んだ。日々募る恐怖と猜疑心。今日は誰が殺される?今日は誰が密告される?隣に座るこいつは怪しいのではないか?やられる前にやってしまおうか?
 狂乱の日々は続いた。
 やがて見かねた中原が太宰に事態の収集を訴えると彼は待っていたとばかりに微笑む。
「君が暗殺してよ」
「…暗殺は筋が通らねえんだろ」
「だから、これは安吾ではなく君の仕事なんだろう?」

 信頼してるよ、私の狗。

 その身に纏わりつく太宰の信頼に吐き気を催した。しかしどこか心地よくもあるのだから始末に負えない。
「手前は手前のオトモダチですら裏切るってか」
「大切な友人だから、汚れ仕事を嫌がる安吾に任せられないんじゃないか」
中原はぺっと唾を吐いた。

***

 ヨコハマの闇社会は様変わりした。ポートマフィアの現首領が変えたのだ。
 現首領は若く聡明でカリスマがあった。歴代最年少の首領は組織の構造をがらりと変え、夜に潜む組織を表舞台に立たせてみせた。先代が政府からもぎ取った異能開業許可書を最大限に生かしたのだ。おかげで今や組織は《インテリヤクザ》が幅をきかせている。
 何故、若き首領は組織の改革したのか?
 それは二人の親友を自分の側に置く為、つまり側近として認めさせる為であると囁かれている。事実、首領の側近のうちの一人は諜報員出の非戦闘員であり、もう一人は《殺さずのマフィア》という変わり者。本来ならば組織の中でも日の目を見ることのなかった者たちだ。しかし首領は二人が最大限能力を発揮することのできる舞台を用意して側近とした。首領は彼らは私の大切な友人で非常に優秀な構成員だと言ってはばからない。

 では、かつて組織において活躍した者達――つまり、理不尽と暴力の権化として闇社会で獣の如く暴れまわった構成員はどうなったのか。
 なんのことはない。
 彼らは相変わらず闇の中で血を浴びていた。しかし決定的に違うのは、彼らがより闇に紛れるようになったことだ。
 首領は殊更、殺しに携わる者達に隠密を徹底させた。おかげで先代のもとで名を馳せた暗殺者はとんとその名を聞かなくなった。彼らが姿を消したのではない。彼らは依然は存在する。ただ、闇社会を震え上がらせる恐怖の象徴はいらなくなったのだ。事実があれば良い。“ポートマフィアに逆らってはならない、でなければ殺される”という漠然とした恐怖だけで事足りる。
 よって死臭を纏う者はその濃さに比例して暗がりへ身を隠した。まさに鳥からも獣からも嫌われ洞窟へ追いやられた蝙蝠の如く《インテリヤクザ》どもと他ならぬ首領が昼の世界のみならず夜の世界からも追放したのだ。彼らは組織内部にさえ存在を抹消された。

 ただし、例外がたった一人だけ存在した。
 首領の側近の一人である青スーツに身を包んだ赤毛の小男だ。

 この男は様変わりしたポートマフィアが、やはり理不尽と暴力を本質とする組織であることを思い出させる役割を担う。死臭漂う男が表舞台に立つことに眉を顰めた《インテリヤクザ》にそう説明したのは首領だった。
「だってポートマフィアとしては一応、圧倒的暴力や理不尽を与える用意があることを示さないといけないじゃないか。でないと低俗なゴロツキは我々をナメてかかるだろう。
 ――――野蛮な奴らは暴力を示さないと自分の立場を理解してくれないからねえ」
首領はそう言いながら、外套から真っ赤な紐の付いた鈴を取り出して「リン」と鳴らす。
 すると影からぬらりと例の青スーツの男が現れた。
「お呼びですか」と男。
「呼んだだけ。下がっていいよ」と首領。
男は何も言わずに再び闇に溶けた。
「どう、気付かなかったでしょ?
 アレは、とても優秀な私のボディガードで暗殺者さ。君たちが恐れる他の暗殺者達、例えば《黒蜥蜴》や《禍狗》や《爆弾魔》はアレに従う。
 ……君たちではなく、ね」
そういうわけだから、私の狗をよろしくね。首領はそう言ってにこりと笑う。男は組織の中で、唯一公に認められた存在となった。

 しかし首領の命により男の名は組織内でも伏せられた。すると、まるで組織全体が異能にでもかけられたように男の名は忘れられた。組織の《暴力》の具現となり名と人格を奪われたのだ。
 そうして首領は男の名が忘れられると嬉々として男を呼び出し侍らせるようになった。そして姿を表しせば男に対して寵愛のような、辱めのような、どちらであったとしても悪ふざけとしか言いようのない扱いをした。跪かせ召使のようにこき使うこともあれば、名前の無いその男を“私の狗”と言って首輪をはめさせリードで繋ぐこともあった。敵対組織の長と会談する時は口輪をさせてすぐ側に控えさせることさえあった。

「コレは首領から彼への《嫌がらせ》だ」
そう言ったのはかつての彼らを知る者だった。彼の名と彼のかつての姿を、そして《双黒》を忘れまいと足掻く者たちだ。
「首領は、彼を殺してしまった。相棒であった彼を!」
そう言って暗がりで息を潜める暗殺者は、侮蔑と畏怖とほんの少しの羨望を混ぜた視線に晒される青スーツの男にひっそりと忠誠を捧げた。

 それに対して「まるで分かっちゃいない」と一笑に付したのは首領の側近、《インテリヤクザ》代表の男だった。
「首領は彼をすっかり自分の物にしてしまいたかったんですよ」
男は特徴的な丸眼鏡を神経質に磨きながら言った。
「つまり、名も人格も奪い居場所を自分だけにしてしまった。逃げられないように。
 首領が最も恐れたのは《喪失》です。彼は昔から《喪失》を運命だと悟ったように口にしていましたから」

 ええ、そうです。彼……Nとここでは呼びましょうか。Nは昔からどこか首領に執着していましたが、その執着は忠誠より弱い。それが首領には酷く恐ろしいことだった。
 貴方は何故首領が五大幹部を解散させたか知っていますか?
 ――――Nを手に入れるためですよ。Nを自分一人の物にするのなら、他者から彼に纏わる記憶を消し去ってしまえばいい。幽霊のように実態のない人間になってしまったなら彼は確実に首領に依存しますからね。Nは存外、孤独を厭う。

「ならば、Nを人前に出すのはおかしい」
そう指摘され、丸眼鏡の男は「それですよ」と疲れきったような声をあげた。
「そこが首領のめんどくさいところです。首領はNを自慢したいんです」
首領はNに例の青スーツを誂えて昔の黒装束を捨てさせた。そして自分が選んだ服を着た彼を侍らせ悦に入るのだと語る。
 同情をのせた瞳で男は続けた。
「首領は時々、Nを“貸し出す”ことがあるのは貴方もご存知でしょう。彼らはNが血の通った人間であることに驚き類稀なる戦闘能力に目を見張る。そして首領はNを返してもらった時に、必ずこう言うんです。
『なかなかどうして、使えるでしょう?私の気が向けばいつだって貸してあげよう』
すると、相手は羨ましそうにNと首領を見るんです。その視線にますます首領は悦に入る」

 Nはというと、人形のように無表情でたんたんと自分の使命をまっとうしていた。笑えと言われれば笑ってみせたし、跪けと言われれば跪く。昔のように自分に楯突いてみせろと命じられた時は「首領に楯突くなどとんでもないことです」と微笑み楯突いて首領を苛立たせ喜ばせた。

 実際のところ、Nは首領に忠誠を誓っていたのか?その問いに丸眼鏡の男は鼻の頭に皺を寄せて呻く。
「Nは首領の側を離れることが出来ない。精神的にもね。Nは自身の身体がすっかり首領の物になってしまったことをよく承知しています。
 けれど、同時に首領を酷く恨んでいる。Nには特別な“相棒”がいたのに、それを取り上げてしまったことを」
一方で首領は相棒を取り上げた心算などなかったのだから、なお悪かった。Nが昔のように気安く彼の隣にいると信じて疑わなかった。
「きっと、彼は首領に復讐するでしょうね」
男は目を伏せた。
「だから私は彼が首領の手のひらからこぼれ落ちないように、彼を見張ることを自分の使命だと思っています」

ええ、私は善人ではありませんし卑怯ですから。あの酒好きで喧嘩っ早い友よりも、孤独を抱えた親友を選んだんです。
だから私もNに寝首をかかれないようにしなければなりませんね。

 丸眼鏡の男は「メロドラマみたいでしょう」と自嘲した。
「結局、私たちは泥濘の中を這いずり回る野良犬にすぎませんから」
その呟きは夕闇に溶けて消えた。