MAIN文豪ストレイドッグス短編

東風解凍

東風解凍 はるかぜこおりをとく


 あ、い、う、え、お。
 あ、い、う、え、お。

 幼い子どもの声が暗く湿った路地裏に木霊する。
白瀬は「あ、い、う、え、お」と繰り返す赤毛の少年を見下ろした。積もった雪に文字を書く少年の指は真っ赤だ。
「中也、それじゃ指、冷たくて痛いだろ」
そう言えば、白瀬を見上げて首を傾げる。白瀬はため息をついて真っ赤になった指をぎゅうと握ってやった。
「いいか。今お前の指先がじんじんしてるのは『冷たい』から『痛い』んだ」
「つめたい。いたい………」
「ああ、そうだ。痛いだろ?」
「…………うん。痛い」
少年―――中也は眉をしかめて白瀬に痛い痛いと訴える。
「馬鹿な中也。ほら帰るぞ」
そう言って二人は手を繋いだまま、寝床としている『家』へと歩きだした。

 中也は半月前に羊に拾われた少年だ。
 彼は文盲だった。そればかりか、言葉というものを知らないようだった。羊たちは面白がって彼に言葉を教えた。
 ぼ、く。わ、た、し。ご、は、ん。そ、ら。お、う、ち。そんな言葉をよってたかって吹き込んだ。
 そうして今では白瀬が読み書きを覚えさせている。

「なあ、晩飯、何が食いたい?」
白瀬の問いに「にく!」と元気よく答える彼を眩しそうに見る。赤ん坊のような中也。彼を見ていると、胸の奥がそわそわとする。
 羊に拾われてから、言葉を覚えた少年。ケモノのようだった彼がニンゲンになっていく。その姿は蛹が蝶に―――いや、芋虫が蛹になる姿を見ているかのようだった。
「肉なあ。皆食べたいよなあ、肉」
ちらりと少年を見ると、彼は何度も頷いて白瀬を見上げている。
「……知ってるか」
「何だ?」
「お前が最初に覚えた言葉、『いただきます』だったんだぜ」
食い意地はってるよなあ、と白瀬は笑った。中也は怒ったような恥ずかしがっているような真っ赤な顔で「うるせえ、ばぁか」と不貞腐れた。

*****

 何読んでるんだ、と聞かれて表紙を見せる。何処かの国の誰かの詩だ。
「詩じゃ、腹は膨らまねえよ」
「……るせぇよ」
フン、と鼻を鳴らし紙に載った言葉を目で追う。そして指でなぞりながら、小さな声で単語を読み上げる。
「う、み…
 た、い、よ、う…」
「文字、読めるようになったんだな」とショウゴが言う。アキラは「文字なんか読めたって」と馬鹿にした。サヤカは「あんたと違って中也は頭がいいの!」と笑い、マコは「シラセさんが教えてくれてるんだから」と続けた。

 中也が拾われてから一年。中也は急速に言葉を覚えていた。
 海、うみ、ウミ。白瀬は青く広いと教えた。覗き込むと青が濃くなり黒に近づくのだとも教えた。
 中也はそれによく似たものを知っていた。「でもお前海見たこと無いだろう」と言われたので、こっくりと頷くと「馬鹿な中也」と頭を撫でられた。
 産まれる前の朧気な記憶。
 優しい青い暗闇と孤独。きっと小さな海の中で俺は産まれたのだ。
 中也は頬をほんの少し赤らめて白瀬に「『海』って、どう書くんだ?」と聞いた。
 白瀬は中也の手を取って、地面に『海』と書いた。中也は何度も『海』を書いた。

 雪の溶け始めたある日のことだった。