長編

Goodbye Lullaby

「赤いくつ履いてた女の子
  異人さんにつれられて行っちゃった…」
太宰治は襖の向こうから聞こえる歌声にうっとりと聞き惚れた。
 目を瞑り歌に集中し脳髄にまでじっくりと染み渡らせる。なんと心地よい歌声だろうかとため息をついた。あの薄い唇と真っ赤な舌がこの歌を紡いでいるのだと思うだけでずくりと下半身が重くなる。歌声に耳を犯されているような、そんな感覚だった。
 本能のままにゆるく腰を動かし快感を得るとぐちゅりぐちゅりと卑猥な音が歌声と混ざる。太宰は乾いた唇を舐めた。

 歌声は赤い靴の少女の運命を歌う。赤い靴を履いた女の子は、海の向こうに行ってしまった。女の子の行方は誰も知らない。遠く、遠く、歌い手は女の子に手を伸ばそうとも決して届かない。触れることすら許されない。
 きゅうと太宰の胸が悲鳴をあげた。それを誤魔化すように頭をふって乱暴に腰を打ちつける。ぎりりと噛み締めた奥歯が痛んだ。目を瞑った暗闇、その奥にチカチカと切れかかった電球のような光、否、真っ赤な炎が見える。

「……やっ、ひゃん!」
 不意に耳に割って入ったのは甲高い喘ぎ声。歌声を妨げるその不愉快な音に薄らと目を開けると体の下に黒髪の女が横たわっていた。
 太宰は喉まで出かかったため息を殺し「ごめんね」と謝った。そして宥めるように背に浮かぶ汗を舐めとってやる。女は声を出さないよう枕に顔を押し付け快感をやり過ごしていた。
「ありがとう」と太宰は申し訳なさそうに言う。彼女に行為中は決して声を出さないように言ったのは太宰だった。
「でも、あともうちょっと、頑張ってもらっていいかな」
こくこくと頷く女に「少し、痛くするよ」と甘く囁いた。ふるりと震えたのは期待からか、それとも恐れからか。
 太宰は再び目を瞑る。女を視界に入れたくなかったのだ。
「ねえ、中也。歌って?」
いつのまにか聞こえなくなっていた歌声を、襖の向こうの彼に要求する。不機嫌そうな舌打ちが聞こえ再び歌声が響いた。

(脳に、中也の声が、響いて――――)
浅ましい欲望が兆すのを太宰は自覚する。
(なめらかな髪。どかせば、項。
 でも剥き出しにしても、チョーカーが邪魔なんだ。……ああ、あの黒は、私が与えたものではない、から、引き千切ってしまいたい。
  それから背中。鍛練のせいで細かい傷が残る背中……私を守るために負った傷が、沢山ある。私の描いたシナリオの中で作った傷も。
 ――――たまらない)
指でなぞりながら妄想する。そこにないチョーカーと傷を思い描きながら太宰は女を抱いた。

「お待たせ」
「……相変わらず悪趣味なやつだな」
行為を終えて直ぐに襖を開け、部屋に背を向けていた彼にしなだれかかる。
 筋肉質な体、決して自分を受け入れてはくれない体。いたずらにするすると撫でてもピシャリと叩かれてしまう。それが酷く切ない筈なのに、どうしようもなく体が火照る。
「手前、あんだけヤッたのにまだ残り弾あんのかよ」
緩く頭をもたげた太宰の野蛮な本能に侮蔑の視線が送られた。太宰はそれにすらぞくぞくと官能を煽られる。我ながら卑しいものだと自嘲した。
「んー……だって、ここ最近忙しくってさ。溜まってたんだもの」
「俺だって忙しかったってのに手前の……」
言いかけてからばつが悪そうに「やめだやめだ」と煩わしそうに手を振る。雨雲色の彼の瞳に自己嫌悪を見た太宰は目を細めて首筋に鼻を埋めた。
「溜まってるんだったら、私が処理してあげてもいいけど?」
「ぬかせ」
中原は吐き捨て太宰を引き剥がすとチラと和室に視線を送る。真っ暗な部屋には失神した女の白い肌がぼんやりと幽霊のように浮き上がって見えた。
 チッと舌打ち。女を隠すように襖を閉め「俺は帰るからな」と投げやりに言って立ち上がり足早に去っていった。

 太宰は中原の座っていた場所に額をコツンとつける。そして打ち捨てられたかのように倒れ込んだ。
「またフラれちゃったねぇ」
誰に言うでもなく呟かれた言葉は暗闇に吸い込まれた。

 きっかけは、たまたまだった。
 彼らが十四、五の頃の話だ。中原が太宰の代わりに男に抱かれた。その悍ましい行為の対価として中原が得たのは、太宰が得るはずだった手柄と太宰が被るはずだった屈辱だ。
 太宰は中原を軽蔑した。若い成長途中の体を痛めつけ貶め辱めるための行為。その屈辱を甘んじてその身に受ける彼もまた、悍ましい存在に思えたのだ。
 太宰は「私に貸しを作った心算だったの」と詰った。幼い時分より同じ時間を過ごすことも多かった彼に失望したのだ。それは酷い裏切りだった。だから余計に彼を侮辱してやりたかった。
 すると中原は虚をつかれたような、幼い顔を更に幼くさせた顔で「何言ってんだ?」と首を傾げた。
「貸し……?お前、あんなのが貸しだって?」
「…………まさか、君、おっさんに抱かれるのが日常茶飯事とか言わないでよ?」
「んなわけあるか!」
そうじゃなくて、と中原は唇を尖らせる。
「俺は手前じゃできねえと思ったから手前の手柄をうまぁく横取りしただけだぜ?」
そして何を思ったのか閃いたとばかりに得意げに鼻を鳴らして「ああ、手前、手柄取られて悔しいんだろ」と太宰を小突いた。
「ばっかじゃないの」
「はあ?」
「いや、馬鹿だったのは私のほうか」
君が私のために犠牲になっただなんて、罪悪感をほんの少しでも感じてしまうだなんて、なんて屈辱的だろうか!
 最大限の侮蔑を込めて「雌犬っ!」と罵った。

 それから一年が経ち、太宰はあの一件以来中原がそういった仕事を躊躇うことなく引き受けていることを苦々しく思っていた。
 主に少年愛の女性、それから時々男性を相手にした、蜜の罠。
「そういう仕事、嫌じゃないの」と訊けば「それ、姐さんとこの部下にも同じこと訊けんのか」と返された。
「野蛮な君なら暴力に訴えた方が早い気がするけどね」と言えば「俺の能力は殺しには向いてるが生かしとくのは不得手だ」と悔しそうに言われた。
「下手に君が諜報活動するよりも専門の部隊に任せた方がよっぽど情報が手に入るだろうよ」と厭味ったらしく嗤えば「俺には諜報員を動かす権限がねえから自分の体使うほうがよっぽど早い。幹部候補の手前と違ってな」と厭味で返された。

 太宰が師に不満を漏らせば彼は「ハニートラップも立派な諜報活動だし、本人を無理に働かせているわけでもないしねえ」と苦笑する。
「でも、私の相棒としてアレを選んだのは貴方でしょう。他の任務に支障をきたすような事があったら……」
唇を尖らせる太宰に「おや」と首を傾げる。
「君、勘違いしているけどね――」
部屋の空気が凍りつく。太宰の目の前にいたのは彼の保護者であり師である森鴎外ではなくポートマフィアの新しい首領の姿だった。
「確かに君達は相棒関係にある。それに中也君の異能は戦闘向きだ。
 けれど、彼に諜報員としての才能があるならば、そしてその能力が組織にとって最適解となるならば、何時だって君達の関係は消滅しうる」
「………は?」
だってそうだろうと首領は笑った。
「太宰君、君は優秀だ。誰とだって相棒になれる。誰の能力だって最大限に引き出せる。
 中也君もそうだ。君がいなくたって、一人でだって、十分にやっていける」
 それは鈍器で頭を殴られたかのような衝撃だった。
 私は誰とだって相棒になれる?ああそうとも。中也と相棒になったのはたまたまだ。誰とだって相棒になれる。否、本当に?私の作戦を完璧にこなせるのは中也だけではないのか?
 ………いいや、そんなことはない。私の作戦立案は間違わない。中也でないのなら、その別の誰かが完璧にこなせる作戦をたてる。
 ――――では中也は?私がいなくてもやっていける?私が中也を一番扱えるのに?なぜ首領はそんな戯言を?

「話はそれだけかな?」
「…………」
「さがりたまえ」
太宰はむかむかとする胸を押さえながら「中也は、そんなに、魅力的ですか」と囁いた。
「あんなちんちくりんの、ちび。筋肉つけてるからゴツくて柔らかくもないでしょう。可愛げもないし、目つきも悪すぎる。それなのに、」
しかし、森は意識をエリスに向けて優しげに微笑んでいた。太宰の囁きが聞こえたのか、それとも聞こえないふりをしたのか、真っ赤に染まった太宰の頭では判断がつかなかった。

 森の執務室から退室し、太宰は考える。
 中原にとって自分は代替可能なのだろうか。自分にとって中原は代替可能なのだろうか。
 太宰は立ち止まって思わず口もとを押さえた。
(吐き気がする)
喉の奥が酸っぱくて、胸の奥がぐるぐるとして、気持ちが悪い。
 堪えきれずに廊下の端に蹲った。ああ、でも、ここはまだ首領の護衛が立っているのだ。まだ森の領域なのだ。太宰は壁に手をついてふらふらと立ち上がった。

「あ、あの……」
背後から声をかけられた。控えめな声だ。見れば、見知った若い男が立っている。
「ああ、君。何か用?」
太宰は拳を握りしめる。何か用かかと聞いたがこの男が太宰にどんな報告をするか、太宰はよく理解していた。
「あの……中原構成員が、また…、」
男は言い辛そうにしながら中原が再びどこぞの女、あるいは男と床を共にしていることを知らせた。
 彼は先の抗争で太宰に命を助けられた。それ以来、太宰の命令に従っている。本来なら肉の壁になる筈だったところを太宰がその運命から救ったのだ。無論、太宰は彼を助ける心算などこれっぽっちもなく、抗争を合理的に征するため肉の壁の作戦を却下させたに過ぎなかったのだが、彼は太宰に「なんでもする」と約束した。
 その際に「君、☓☓さんとこの部下でしょう。じゃあ、もし、中也があの部屋――☓☓さんが持ってる料亭のあの部屋でハニートラップでも仕掛けたら教えてよ。指差して揶揄かいに行くからさ」と冗談半分で言ったのだ。
 しかし、彼はその命令を律儀に守っていた。つまり、中原が組織所有の料亭の個室――その肉体を使って標的を籠絡せしめる為に作られた部屋を使用する度に太宰にそれを告げたのだ。
「今月に入って何度目だい?」
「……三度目です」
太宰はぎりりと歯を食いしばった。
「……めちゃくちゃにしてくる」
「は…………、」
男は慌てて太宰を止めるがそれを振り切って料亭へと向かった。

 料亭を警備しているのは組織の人間だ。太宰は警備にあたる構成員を言いくるめ(彼が組織内で次期幹部と噂されていることも幸いした)中原が使っているという和室の前に立った。襖の向こうから、卑猥な水音と女の喘ぎ声が聞こえてくる。
「誰かいる」という楽しげな女の声。
「集中しろよ」という吐息混じりの中原の声。
(本当に、中也がこの中にいる)
一層激しくなる破裂音にも似た音。中原のうめき声と女の嬌声。
 太宰の心臓はバクバクと騒ぎ立て、中原の声と息と水音に、脳がじわじわと犯された。
(こんな声、知らない。私の知っている中也じゃない。違う。誰だ?中にいるのは。本当に中也なのか?
 分からない。何もかも分からない。
 中也が女と寝ている?私の許可もなく?私の知らない女と?)
きぃんと耳鳴りがした。ぐらりと世界が回転し、襖の奥に酷く恐ろしいバケモノがいる気がした。グロテスクで悍ましく忌々しいバケモノが。

 太宰は震える手で襖に手をのばす。人差し指を引手に手をかけた。女の声が大きくなった気がして、心臓の音がいっそう早くなり、ハッハッと呼吸があらくなる。
 人差し指に力を入れた。しゅる、と滑らかな音がしてびくりと肩を震わせる。ほんの少しだけ、向こう側が見える。太宰は唇を舐めた。
「んッ、は、あッあッ………」
 大きくなった喘ぎ声に息を止めて向こう側を凝視する。
 仰向けになった中原の上に女が乗り上げ身を踊らせているのが見えた。中原は細かく喘ぎながら女のされるがままになっている。女は襖がほんの少しだけ開いていることに気付かないまま耳障りな嬌声をあげ涎を垂らす。
「ねえ気持ちいい?」と女が訊く。中原は目を細めうっとりと笑い「気持ちいい」と掠れた声を出した。
 甘ったるくて淫靡で、下品で、あまりの嘘臭さに吐き気がする。それなのに、目をそらすことができなかった。
 ひくひくと震える中原の体。嘘っぱちの『愛おしさ』を浮かべた潤んだ瞳。シーツに広がる赤毛。
「っはぁ……ぁ…………中也」
太宰は杭に打たれたように動けないまま思わず名を呼んだ。
「あッ、ひっ……ぐ、ああ………ぁ、あ!」
女が狂ったように腰を動かし中原が顔を歪め、くんと喉をそらす。
「………っ!」
その時、中原の瞳が太宰を捉え大きく見開かれた。それを見て女の濁った瞳も太宰を捉える。
「わたしたちッ……ぁ、ひゃあッ!……うふふ、見られてるっ」
女が厭らしく中原に微笑みかけた。しかし中原は太宰を見上げたまま女の言葉には応えない。女はムッとした顔で中原の胸に舌を這わせた。中原は「ひぐっ」と情けない声を出すが、依然太宰を見上げたままだった。

 中原の唇がわななき、そして、何を思ったのか、真っ直ぐ太宰の目を見たままひどく穏やかな――今まで一度とて太宰に見せたことのない穏やかな笑みを作って見せた。
 だざい、と唇が動く。数度、瞬き潤んだ瞳から水滴がはじき出される。中原は、挑戦的な、それこそ敵を前にした時のような笑みを浮かべていた。はたして中原のこの笑みはこんなに淫靡だっただろうか、と太宰は真っ赤になった頭で考える。
 太宰を見つめたまま、びくびくと中原が痙攣した。
 太宰は中原が吐精したのだと分かった。

 そこからの記憶はあまりない。
 ただ、目眩と耳鳴りが酷くて、無茶苦茶に走って、走って、家まで走って、スーツのままベッドに身を投げ出した。
 悪い夢から逃げるように、眠りについた。
 

 気付けば目の前には慈悲深く微笑む中原がいた。太宰はすぐにこれが夢だと認識した。中原があのお気に入りの帽子も被らず、こだわりの服も脱ぎ捨て、黒い革手袋のみを身に着けているからだ。
 中原は混血児であることを見せつけるかのように真っ白な肌を晒しながら「太宰」と甘く囁き手を差し伸べる。太宰は抗うことなく差し出された手を恭しく取り革手袋に包まれた指一本一本に接吻した。そして最後に手首に唇を寄せて手袋の中に指を差し込んだ。
 ゆっくりと手袋の中に侵入しながら首筋を舐めると中原は甘い吐息を漏らす。人差し指、中指、薬指と順に蠢かせ、手のひらを撫でる。そうやって焦らすように手袋を剥いでゆき指と指の間をカリ、と引っ掻くと彼の肩がびくりと跳ねた。
 パサリと音をたてて手袋が落ちる。太宰は露わになった中原の節くれだった指を舐めしゃぶる。口に含んだ瞬間に中原が小さく喘いだのが嬉しくて堪らなくて、必死に舌を動かしじゅるじゅると音をたてて煽った。
「あっ」と中原が声をあげる。「きもちいいの?」と訊いた。こくこくと頷きながら「はやく」とせがまれる。たまらないとばかりに太宰は恋人のように指を絡ませ押し倒した。
 そしてそのまま貪るように口付けを交わし、中原中也にあるはずのない器官に己の怒張をねじ込んだ。ゾッとした。男にあるはずのない場所に、あるはずのないぬめりと、柔らかさと、熱さがあるのだ。気持ちがよくて堪らないはずなのに心臓にナイフを突き立てられたような心地になった。
(違う。これじゃない)
しかし太宰は腰を振るのを止められない。じわりと視界が滲んで中原が二人に見える。
「中也、気持ちいい?」と縋る。中原は目を細め掠れた声でうっとりと「もっと」と言った。
(あの女に見せてた顔と、同じだ。
  むかつく、むかつく、むかつく!!)
胸の奥から洪水のように溢れる感情。太宰は中原をかき抱いて首筋に歯を立てた。耳もとで、くすくすと笑い声が響く。中原は太宰のこめかみに唇を寄せ子犬のようにくんくんと鳴いた。
 ぎゅうと締め付けられ、太宰は仰け反り喘ぐ。
(やめてくれ……求めるものはこれじゃないのに)
そう思うが太宰は衝動のまま奥まで貫いた。中原は感じいったように叫び声をあげた。
(ねえ、私、やだよ。女じゃなくて、君がいいんだ。君じゃないと、意味がないのに、やだ、やだ。君も私をあの女と同じにするなよ。頼むから。その他大勢にしないでくれ!)
「お願いだ中也!!」

 太宰はがばりと起き上がる。心臓が五月蝿い。嫌な予感がして身じろぐと濡れた下履きがぐちゃ、と音をたてた。顔をしかめ深いため息を吐く。
「夢精だなんて、情けない」
はは、と笑おうとするが震えた息しか太宰の喉からは出てこなかった。
「最悪だ………」
吐き気がした。太宰は頭を掻き毟ってベッドに横たわる。目を瞑り、眠ってしまおうとした。なかったことにしようとした。

「……ん、」
しかし脳は女を抱いた中原の姿を写しだす。太宰はそろそろと濡れた下履きの中に手をのばした。
「あっ………ひ、いぃ…、」
一度触れて扱いてしまうと、手の動きが止まらない。ふるりと震えて女のナカで吐精した中原の顔を思い出して喘いだ。
「は、あ……、ふっ……んんっ」
今まで中原に抱かれた女が羨ましいと思った。今まで中原を抱いた男が羨ましいと思った。
(………中也は、私を見ながら、イッた)
思い出せば、ぞくりと背筋に何かが走る。目を見開き、私を見て微笑んで、震えながら逐情していた。その目は確かに私を捉えていて………。
(そう、私しか見ていなかった。私だけしか、あの目には写っていなくて、)
「……ふぁ…ひっ、あ、あ……ちゅうや…っ」
とぷり、と蜜が溢れる。
「わたしをみて……もっと、わたしだけみて」
ぼろぼろと涙が溢れて止まらない。
「しゅうちゃくして。あいして。しにたくなくなるぐらい、あいして………わたしだけを」
次から次へと溢れる先走りがスーツを汚していく。
(さみしい、さみしい。酸化する世界で、私は空っぽだ……。
 君はただ私だけを見てほしい。代替可能だなんて、言わないでおくれよ。私を一番にしてほしい。私を君の唯一にしてほしい。ただ、無条件に愛してほしい…)

太宰は何度も吐精し今度こそぐったりとベッドに横たわった。
「ふふ………うふふ……」
太宰は横たわり、手のひらの白濁を眺めながらくすくすと笑いを漏らす。
(頭ン中、中也で一杯だ。ほんの一瞬、空洞が満たされる。ほんの一瞬だけだけれど………。
 まるでドラッグみたい。悪質で中也そのものだね。中毒になりそう。
 そして、君も、私を頭で一杯にしてくれはしないかな。私で自慰をして、私を求めてむせび泣いてはくれないかな……。
 ねえ中也。私、きっと、ほんの少しだけ、君を愛してる)
 太宰はそのまま夢見心地で眠りについた。

 そうして彼は女を買うようになった。誰でもよかった。
 そして嫌がらせと称して件の和室に女と中原を呼びつけて、セックスをする。襖に写る彼の影を見て女を抱くのだ。
 中原は始めこそ居心地悪そうにもぞもぞと動いているが女が理性を失った頃には諦めたように居直るのが常だった。そうして居直ってしまえば女が派手な喘ぎ声を出していたとしても、中原は気にせず居眠りをする。太宰はこくりこくりと船をこぐ中原の影を見つめて腰を振った。
(私を見てよ)
そんなことを思いながら、女には一瞥もくれなかった。ただ中原の影だけを追って自身の欲望を高め満たした。

 そのうち物足りなくなり「歌っていて」と命じた。命じられた時は嫌そうな顔をしていたが中原はしぶしぶ了承していた。
「俺に見られて興奮するなんざ、とんだ変態野郎だな」
そう侮蔑された。そうだけど、そうじゃないよと言いたかった。本当は君とセックスしたいだなんて口が裂けても言えなかった。

 君の唯一を頂戴。君の一番を頂戴。それがどんな感情でも構わないから。

 太宰のその虚しい遊びは、彼がポートマフィアから姿を消すまで続いた。

***
**
*

 男は空っぽなのだと叫んだ。

 南瓜のように、空っぽだったんだ。「双黒」なんて仰々しいそとづらに騙されていたが、いいか、実際は、南瓜のように空っぽだったんだ!
 「名」を付けたからいけねえ。空っぽなのに「名」のせいで中身がぎゅうぎゅう詰まってると勘違いさせる。そのくせ、「名」は何時までも俺を縛り付けるんだ。そう、俺だけを!まるで「呪い」だ!くそ忌々しい!
 俺はあいつの一番になれないから、唯一になりたかった。「名」のせいで、なれると錯覚していた。あいつの俺を見る「目」のせいで、なれると錯覚していた。
 けど、実際はどうだった?
 俺が死んでも奴は心を動かさないだろう。
 俺が裏切り者でも奴は心を動かさないだろう。
 結局、奴の正体は豚野郎だったんだ。他の醜い肥えた豚どもと同じだ!
 畜生、畜生、畜生!
 奴は消えた!
 こんな屈辱を味わうぐらいだったら、奴に抱かれておけば良かったんだ!ほんのちょっぴり抱いた「愛」なんてものに気づく前に、奴の正体に気づいて俺の小さな「愛」を野良犬にでも食わしてしまえば良かった。
 そして奴につばを吐いてこう嘲笑うんだ。
「手前はこんな筋肉質な小男、それも大嫌いだと公言して憚らない男に欲情した豚野郎だ」ってな!
 なんて虚しい!南瓜みてえに空っぽだったのさ。長い時を共に過ごした分だけ、空洞だけが育っちまった、スカスカの南瓜だ。
 あゝ、虚しい。虚しい、虚しい………。

*
**
***

 四年という歳月が長いのか、それとも短いのか、太宰には分からなかった。
 黒を脱いで取り敢えず形から、と親友と同じ色を纏った。四年の間にぐんと背が伸びた。日差しの中を歩いていても、あまり卑屈な気分にならなくなった。眠れぬ夜に見る悪夢は、心にぽっかりと空いた『空洞』ではなくなった。相変わらず死に焦がれているが、死にたくて死にたくなくて泣きたくなるほどになることはなくなった。

 けれど、たまに思い出す。
 四年前まで必死になって我が物にしようとした彼のことを。今でも彼のことを完全に所有できるのならばどれだけ幸福だろうと思う。ただ、太宰は四年前よりも理性的になったので、彼のことは忘れることにした。
 何故あれほどまでに欲した彼を忘れることができたのか?それは太宰が四年の歳月を経て理性的になったからではなく、太宰と彼の間の強い鎖の存在に気付き理性的になるだけの余裕を得たからだ。

 太宰が去った後、『双黒』は消えた。『双黒』の名は太宰と中原を結ぶ鎖だった。そして『双黒』と呼ばれたのは『汚濁』を使ったからだ。『汚濁』は中原の異能だが、太宰がいなければ、成立しない。つまり、二人でなければ『双黒』は存在しない。

(私がいなくなって、中也は汚濁を使えなくなった。
 ――私がいなければ存在しなかった選択肢の『汚濁』だ。
 つまり、中也は私の不在により不完全を強いられることになった。もとより私がいなかったら完全であったはずなのに。
 そうとも。私が彼と出会ってしまったから、彼は不完全になった!)

 あゝ、今頃、彼は私の不在によって、より私の存在を感じていることだろう。恨んでいるだろうか、憎んでいるだろうか。
 酔った中原からの着信履歴を眺めては悦に入る。彼の執着がぽっかりと空いていた『空洞』を埋めていく。彼の唯一になれたような、一番になれたような、そんな気がした。

 だから、中原が虜囚となった太宰に“会いに来た”時、太宰は歓喜した。
(会いに来てくれた!中也が!!
 手紙を受け取る前に、私のところに来たのだ!つまり、西方の遠征から帰ってきてすぐに!)
 元相棒と呼ばれ、歓喜した。
 歴代最年少幹部と呼ばれ、苛立った。
「私のせいで組織を追われる中也っていうのも素敵だけれど」と、本気で思った。
 しかし同時に太宰は恐怖した。一夜限り『双黒』に『戻った』からだ。『双黒』は『戻る』場所になってしまった。そしてそこには戻らないと誓った。

「『双黒』として暴れて懐かしかったかい」と訊いたのは広津だった。組合戦が収束した後に揶揄かうように口にしたのだ。
「懐かしい、ねえ……」
太宰は苦笑する。広津は「また『双黒』に戻りたいとは思わないのかい」と太宰の瞳を覗き込んだ。
「やだなあ。あの人から言わされてるんです?」
「いや何、ちょっと君を揶揄かっただけさ」
「………戻るも何もありませんよ。双黒は、絆ですから」
「ほう?」
太宰は自分に言い聞かせるように言葉を紡ぐ。
「双黒の名は、コードネームではない。絆なんですよ……鎖と言ってもいい。
 私と中也を繋ぐ鎖です。同時に彼を完成させるピースでもある。だから、戻る、というのはおかしいんです。まったく、正しくない言い方だ…。
  たとえ、私たちのどちらかが死んだとしても、『双黒』は消えない。そういうものなんです」
広津は太宰の言葉にわざとらしく目を丸くさせた。
「そんな風に自身に言い聞かせなければならないほどになってしまうとは、四年というのはそんなに長い時だったのかね」
「………………」
「そんな殺気をぶつけられると困ってしまうだろう。
 ―――彼はあれでいて多くの人間を破滅においやる男だ。君も気をつけ給え」
太宰は「中也は私に執着している」と呟いた。広津は「まったくその通りだから、警告しているのだよ」と笑った。

 それ以来、太宰は中原の影から逃れられないでいた。夜、眠りにつくと彼の影がちらつく。彼があの慈悲深い笑みを浮かべたまま、親友を喪った太宰を嘲笑うのだ。手前は滑稽な道化師だと指をさして嗤い、そして淫靡な笑みを浮かべて可哀想にと抱きしめる。
「親友を喪い、祝福のようなみちしるべを示され、足掻き続ける可哀想な男」
そう言って「今だけ逃げてもいいんだぜ」と甘やかな接吻を施すのだ。「祝福が呪いに変わる時、俺が手前をゆるしてやる」と言って太宰の浅ましい欲望を受け入れる。そんな悪夢だ。
 気が狂うと思った。
 まるで中毒が再発するかのように、どうしようもなく中原中也という男の『唯一』と『一番』が欲しくなった。彼が頭の中を自分で一杯にしてくれればいいと思った。
 そして堪えきれなくなって、太宰は彼に会いに行くことにした。中原があの料亭を予約している日を調べ待ち伏せしたのだ。

 月の綺麗な夜だった。
 料亭の裏の、薄暗い駐車場で男女が寄り添いあい縺れあっている。顔を近づけて男が女に何事か囁く。女は顔を赤らめ恍惚とした表情で長い睫毛を瞬かせた。
 太宰はそれを見ながらきゅうと心臓が悲鳴をあげるのを聞いた。男――中原の目に浮かぶ偽物の愛情。その裏にあるのは、憐憫と侮蔑。さて、あの目は自分に向けられたことはなかったか?
(あゝ、私は、私にだけ見せる君の愛が欲しい)
女は中原に触れようとして手をのばし、そしてその手を引っこめる。そしてまるで許可を待つように中原を見た。中原はそれを見てくしゃりと笑い、女の手を取った。
 優しくて、温かくて、羨ましい光景だった。
 女は中原の頬に唇を寄せ、とある車のドアを開ける。そこから一人の男を引き摺り出した。男は両手を後ろ手に縛られたまま中原の足元に転がされる。中原は驚く素振りを見せない。女は中原に縋るような目を向けていた。その瞳はどこか自分に似ていると太宰は思った。
 男が中原を見て立ち上がろうとすると、女が激しく男に暴行を加え始める。男の腹を蹴り、横っ面を蹴り、踏みつけたのだ。それでも男は芋虫のように這いつくばって中原に近づく。そして血みどろの顔で中原の靴に接吻をした。それを中原はほんの少しの同情をのせた瞳で見た。
 女は発狂したように叫び懐から銃を取り出し男を撃ち殺す。何発も何発も撃ち、そして最後に己のこめかみに銃口を当てて撃った。
 なんてことはない。出来の悪いメロドラマを見せつけられたのだ。太宰は男と女の体が死後の機械的な痙攣によりピクピクと動くのを極めて同情的に見た。どうしたって、他人事のように思われなかったのだ。

 中原はタバコをふかせながら隠れていた太宰を真っ直ぐに見る。
「でばがめたぁ趣味が悪ぃな」
「なぁんだ。気付いていたのかい?」
気配も消そうとせずによく言う、と中原は片眉を上げた。太宰は中原の側に寄り、そっと人差し指を顎に添えて上を剝かせる。
「君、この二人と寝たんだね」
「………だったら?」
中原がくくっと喉を鳴らす。この女はなかなか具合が良かったぜ、と厭らしく微笑んだ。美人だし物分りが良かった、こんな最期になっちまって惜しいくらいさ。そう囁かれた太宰は思わず女を見下ろした。女は中原と太宰を見上げていた。
「節操なしだね」
「手前にゃ言われたくねえな」
中原は煙草の煙で輪を作りながら「俺は少なくとも、仕事以外じゃ女―――と、男もか。兎に角、そいつらを泣かせたことはねえしな。手前と違ってよ」
「なぁに。誰だって抱くし誰にだって抱かれる癖に、まるで心は純潔のままみたいな口ぶりじゃあないか」
チリチリと燻る炎をかかえたまま、中原の煙草を奪い、唇を親指でなぞる。薄らと開かれた唇から、真っ赤な舌が見えた。
「言っておくが、こいつらは勝手に死んだ。俺が仕向けた訳じゃねえ。俺は仕事でこいつらと寝たが、女の方がこっちの男を拉致ったのもぶっ殺しちまったのも予想外なんだぜ?」
中原は太宰の後頭部を掴み顔を近づける。
「だからよぉ、手前ら探偵社につべこべ言われる筋合いはねえぞ」
「…………そんなこと気にする必要はないさ。探偵社は依頼がなければ基本的には動かない。……それにコレはポートマフィアの領域だろう。私がそれを間違えるとも?」
すると中原は心底不思議そうに首を傾げ、眉間に皺を寄せた。
「じゃあ、なんで手前はここにいる?今日、ここを予約してたのは俺と箸にも棒にもかからねえただの一般人だ。そいつらはこの料亭がマフィア傘下ってことも知らねぇだろうよ。
 依頼受けたんじゃねえならなんでここに……」
そこまで言って、中原はハッとしたように目を見開いた。
「まさかとは思うが」
太宰は思わず目をそらす。
「俺か?」
「…………そうだよ。君が、ここを使ってるって聞いてね」
揶揄かってやろうと思ったんだ。そう続けようとした。しかし、中原が人差し指一本で、太宰の言葉を遮った。真っ黒な革手袋に包まれた人差し指を突きつけられ、太宰は思わず口をつぐむ。

「俺のこと抱きてえの?」と中原が嗤った。太宰は観念したように項垂れ、カラカラになった喉から「抱きたい」と掠れた声で欲望を口にした。
「酔狂だな」
「そんなのは百も承知だよ。
 ああ、自分でもそう思うさ。君みたいなちんちくりんの男に欲情するなんて狂ってるよ」
それでも君が欲しい、君を抱きたい、君を征服したい。ねえ、中也、いいでしょう。有象無象に抱かれるぐらいなら、私にだって、抱かれてよ。それともお金あげようか。そちらの方が抱かれやすいんじゃないかい?

「手前、売女だとでも言いてえのか」
中原はすう、と目を細め冷たい殺気を放つ。
「俺は手前らみたいな男と違ってケダモノみてぇに腰振ったりしない。手前らが抱いてる女みてぇに下品に媚びたりしねえ」
そして口角をあげ、完璧な作り笑顔を顔面に貼り付けると意味深に太宰の体に擦り寄り「ま、そんなケダモノみてえな男や下品な女は、カワイイけどな」と囁いた。
「なぁ太宰。手前はカワイくなれんのか?あ?
 ……無理だろ。手前が求めてんのはそういうンじゃねえ筈さ。な、そうだろ?

 当ててやるよ。
 ………手前は俺とコイビトになりてえんだ………それが願望なんだ。

 ……………でも…………なあ、分かるだろ。

 いいか、よく聞け。所詮、手前も豚野郎と同じなのさ。俺にぶち込みてえか……そうじゃなきゃぶち込まれてえかだ。そうに決まってらぁ」
そう言うや否や中原は太宰の股間をするりと撫でる。くらりと目眩がした。
「まぁ、もし手前がカワイイ豚野郎なら歓迎してやってもいい。
 だが………太宰治よォ……太陽のもとに行った手前は、随分と腑抜けたもんだな。
 それでも歴代最年少幹部サマか?あの黒社会最悪の頭脳の持ち主か?――――双黒の片割れか?」
そうじゃねえだろ。手前は俺にカワイがられるようなたまじゃあねえだろう?な、そうだよな。俺の相棒はそんな豚野郎じゃねえ筈だ。
(ああ、そうやって君は私のことを追い詰めるんだね)
太宰は中原の言葉に唇を噛みしめる。そして、精一杯強がって「君が私を可愛がるんじゃなくて、私が君を可愛がるんだろ」と言った。
「はは、は」と中原はおかしそうに笑って太宰の外套のポケットに手袋を捩じ込む。
「ま、今日のところは俺もそんな気分じゃなねえしな。せいぜいそれで一人寂しくオナニーでもするこった」
ちゅ、と太宰の耳もとでリップ音を鳴らし腰をするりと撫でて中原は高笑いしながら踵を返した。

 残された太宰は「君たちの気持ち、よく分かるよ」と二人の男女の死体に微笑みかけて仰向けにした。顔まわりの血は拭い、胸で手を組ませ、瞼を降ろしてやった。
「君たちは、私だ」
太宰はしゃがみこんで外套のポケットに捩じ込まれた手袋を取り出し、うっとりと口もとに当てた。そしてそれを食むように啄み熱い吐息をもらす。
 空はもう白み始め、魂を抜かれたような三人の姿を隠す夜は終わりを迎えていた。