長編

月面世界着陸

01

 幼い時分には、いつか月に行けるのだと本気で信じていた。まだ彼が店頭に並ぶ大きな大きなテディベアと同じぐらいの背丈だった頃の話だ。自分に与えられた能力をもってすれば月にだって行けるのだと疑わなかった。
 夜、月を見上げて「いつかあそこに」と心を踊らせる。
 ピョンと高く跳びはね月に向かって手を伸ばした。

 グレーの瞳に月光を写す彼は、どこか夢みがちな少年だった。

 夜の帳も降りた頃、一人の少年がベンチに座っていた。ぱたぱたと両足を揺らしながら、上機嫌に空を見上げて歌っている。

 不意に「少年」と声をかけられ、見れば夜の闇に溶けるような黒い壮年の男が立っている。
「君が中原中也君だね」
声をかけられた少年ーー中原はぱちくりと瞬きをして「そうだけど」と呆けたように男を見上げた。
 見たことのない男だった。品のよさそうなその男の背後には闇に隠れるように数人の黒を全身に纏った男たちがいる。誰だろう、と中原はグレーの瞳に警戒を湛える。そんな中原に男は「君を迎えにきた」と云った。
「おれを?」と中原はぱちくりと瞬きをする。男は表情一つ変えずに「そうだ、君だ」と頷いた。
「でも、なんで……」
居心地悪そうに身じろぐ。男の顔をちらと窺えばその視線に鉛を呑んだような心地になった。犬畜生でも見るような視線は好きではない。だっておれは人間なんだから、と唇を尖らせる。そんな風におれを見る大人は、みんな大嫌いだ。
「中原君。君は重力が操れるそうだね」
じゅうりょく、と中原は繰り返し鼻の頭にしわを寄せる。彼は自身の能力を理解していなかった。それを察したらしい男は「君のその能力のことさ」と云った。他の人とは違う、彼だけの能力。
「今までその能力のことは何て教わってきたんだい?」
「天のお父様が与えて下すった贈り物だって、大人は云う」
男は少し笑って「もしも君がその能力を伸ばしてみたいと思うなら、一緒に来なさい」と告げた。
「能力を伸ばしたら、月にも行けるようになる?」
「…………君の頑張り次第だな」
「じゃあ、一緒に行く。おれ、がんばるよ」
中原はベンチから立ち上がる。
「おじさんも月に連れてったげるよ」
「おや、私も連れていってくれるのかい」
「だっておれ、なんでも出来るもん」
中原は「ほら見て」と自身の能力を見せつけるように電柱を駆け上りくるりと身を翻して猫の様にしなやかに男の前に着地してみせた。男が「ほう」と感嘆を示せば嬉しそうに笑った。
「おじさん、名前は?」
「ああ、まだ云っていなかったか。私の名は広津柳浪という」

 その日から中原中也はポートマフィアに飼われる仔犬となった。
 そして組織に身を寄せてからほどなくして自身の能力をもってしても月になどいけないのだと理解した。

 季節が幾度か巡った。中原は店頭に鎮座している大きなテディベアを見下ろすようになった頃、彼は組織にいる異能力を持たない子どもの存在を知った。彼らは捨て駒だった。ほんの少し心が痛むけれど「君が強くなれば捨て駒なんて必要なくなる」と広津に云われ、悲しむ時間も作らず戦闘訓練を重ねた。

 そんなある日のことだ。
 彼は自分より幾らか幼い少年に「いつか月に連れていってやる」と約束した。
「中也さんは、月に行けるの?」
「ああ。勿論だ。だから、お前もいつか連れていってやるから」
そう言って自分より一回り小さな手を握り、安心させるように笑顔を浮かべた。
 それに対して「馬鹿じゃないの」と鼻で嗤ったのは黒い少年だった。
「……誰だよ」
中原は眉をひそめる。突然現れた少年は包帯やガーゼに全身を覆われ松葉杖をついていた。そして少年の黒鳶の瞳は中原ら二人への嘲りを隠そうともしていなかった。
「私? 私は太宰治。よろしくしなくていいよ。
 ……ねえおチビさん。このお兄さんが何て云っていたか繰り返してごらん?」
闖入者たる太宰に尋ねられ少年は目を白黒させながら拙く言葉を紡いだ。
「えっと。僕のお母さんとお父さんは月に行っちゃったって。それから、僕のお友達も月まで遠足に行っちゃってるんだって。いつ帰ってくるのって聞いたら、中也さんは今度月に連れてってくれるって……そう云ってた」
それを聞いた太宰はふうんと目を細める。そしてぐるんと大きな瞳を中原に向けてねっとりと「中也君、だっけ?」と口にした。
「君は少しエゴが過ぎるんじゃないかい」太宰は中原を値踏みするような、無遠慮な視線をよこす。
「月に行っただなんて嘘を云わずにはっきり死んだって教えてあげればいいじゃない」
中原は目の色を変えて太宰を睨み付け、少年は困惑したように中原と太宰を見る。

 その日は先日行われた作戦でポートマフィア側の犠牲者のドッグタグ、つまり個人識別標の回収に少年らが駆り出されていた。
ドッグタグ!
中原は苦虫を噛み潰したような顔をした。ドッグタグを配られたのは幼い子どもたちだった。判別できない程の死体になっても身元が分かるように、配られるドッグタグ。
 回収されたものの殆どが「出来損ない」の烙印を押された子どもたちだった。

 これは見せしめだ。
組織にとって有益であれという大人たちの命令である。それをまるで理解せずにいる隣の少年に、思わず中原は「彼らは月へ行ったのだ」などという子供騙しを口にしたのだった。

 太宰は「君のご両親やお友達は月に行ってなどいないし、彼は月に行けやしない」少年に甘く囁く。
「これはね、寝たきりの首領の命令なんだよ。使えない、価値のない子どもを処分しなさいってね」
それを聞いた少年はサッと顔を青くさせる。思わず中原は「おい!」と太宰を咎めた。
「なにさ。だって事実だろう。首領は私たちのような子どもに盲目と恭順を強いているのさ」
鋭く冷たい視線が中原を射抜く。「だからって……」と目を泳がせれば呆れたようなため息が返ってきた。
「君はこの子が傷つかず、馬鹿みたいにへらへらしてるところを見て満足かもしれないけどさ。ここはマフィアなんだよ。平和ボケしてられるのは一部の強者だけだ。それを自覚させてあげる方がよっぽどこの子の為だろ」
中原はカアッと顔に血が上ったのを自覚した。
「…………大人ぶってんじゃねえよ」と苦し紛れに云う。
「君こそ、子どもぶるのは止めなよ」と太宰。
「子どもぶっちゃって、可愛い子ぶっちゃって。
 大人に媚びちゃってさ。馬鹿みたい!」
ああ、こいつ、気にくわない。嫌いだ。中原は怒りで顔を真っ赤にさせながら太宰治という名と顔を脳に刻み付けた。
(もうこいつと会うことがありませんように!)

 同い年である太宰と中原がペアを組まされるのはその数日後のことであった。

02

「……や! ちゅーや!」
中原は腹に感じる重みと喧しい声に意識をぐんと浮上させた。寝ぼけ眼で見えたのは、馬乗りになって此方を覗きこむ太宰の姿だ。次いで、枕元の時計を確認する。七月二十日午前一時を指していた。
「中也起きた?」
「…………寝る」
太宰の小憎たらしい笑顔を見て中原は再び夢の世界に旅立つ。ああ、変なもん見ちまった。さっさと寝てしまおう。
「あっ! ちょっと寝ないでよ! この健康優良児!」
ばしばしと肩の辺りを叩かれるが無視を決める。
「そんなしっかり寝たって十五になっても一五五糎しかない君の背丈が急激に伸びることはないんだから諦めて起きなって!」
「身長は関係ないだろうが!」
思わず吠えたてるが、してやったりといった顔で「おはよう」と云われ中原は頭を抱えた。

「で、こんな夜中に何の用だよ」
太宰は待ってましたとばかりに顔を輝かせ、ずいと中原に顔を寄せる。
「今日は何の日か知ってる? 十秒以内に答えて」
「えっと………?」
時間制限を設けて「いーち、にーい、さーん」とカウントダウンを始めれば中原は目をぐるぐると動かしながら必死に考え始める。
「ぶっぶー。時間切れ。
 クイズに答えられなかったお馬鹿な中也君には私の命令を一つ、聞いてもらおうじゃないか」
「はあ?! 聞いてねえよ!」
太宰は「私がクイズを出す時はいつもそうじゃないか、学習したまえよ」と高笑いする。
「そういうわけで中也、今からボートに乗ろう!」

 太宰が中原中也という少年について語れることはあまりなかった。
 第一印象は「頭が空っぽ」で次に会った時には「脳筋」が加わった。それから徐々に「単純」「チョロい」「短気」などが加わる。その殆どが悪口であったが、いつの頃からか太宰はひっそりと「相棒」の二文字を胸の奥で抱えこんだ。実質的には太宰が中原を「使う」関係だったので、相棒と呼ぶにはあまりにも一方的だった。
 太宰は中原を相棒として「所有」していたのだ。彼は自慢の所有物を見せびらかすように、相棒をこき使った。だから自分でない誰かが彼を所有していることが気にくわなかった。やがてはソレが「彼」なのだと諦めるのたが、まだ十五になったばかりの太宰には組織が中原中也を所有していることすら許せなかった。

(……だから、湖に連れ出したのだけど)
太宰は汗だくになりながら頬を膨らませ、目の前で気持ちよさげにしている中原を睨み付けた。
「へぇ、ボート乗りってなかなかいいじゃねぇか」
 部屋から無理矢理に連れ出した時にはあんなにも嫌そうだったのに、とご機嫌な様子の中原に舌打ちをする。
「私ばっかり漕いでて不公平。中也、ズルい」
口に出してみると子どもっぽい響きにますますイライラした。
「だって俺ボート漕げねえもん。手前が連れ出したんだから手前が漕ぐべきだろ」
得意気にしている中原をぎゃふんと云わせたくてたまらなくなる。
(……違う違う。今日の目的はそれじゃない)
太宰は深呼吸をして本来の目的を思い出し、ふうと息を吐いた。

「………今日、なんでここに連れてきたと思う?」と問う。
中原は「ボート乗りたかったんじゃねえのかよ」と首をかしげた。君って本当に単純だと笑い出したいのを堪え「本当はね、君に月面着陸させてあげたくて」と云った。
「月面着陸?」
「そう。さっきも云ったじゃないか。今日は人類が月面着陸した日だって」
中原は不思議そうに瞬きを繰り返している。
「本当に月には行けないけど、ほら。月、見えるでしょう」
そう云って水面を指差す。
 湖にはその日の満月が揺らめいていた。中原は「わあ」と感嘆を漏らし、水に写る月を見た。興奮で紅潮した頬を緩ませ「綺麗だ」とはしゃぐ彼に胸が高鳴る。
(だってこのあと中也は怒り狂うのだから!)

 ところで、太宰にはある困った趣味があった。それは「悪戯」だ。標的は誰だっていい。それこそ最近首領の座についた森にだって悪戯をしかけた。
 暇潰しなのだ。自分の行動でターゲットが豊かな反応を見せるのを見るのが好きなのだ。
 そしてそのターゲットとして極めて優秀だったのが中原だった。単純な彼は太宰の悪戯にすぐ引っ掛かる。そして顔を真っ赤にさせて怒り狂い太宰に食って掛かる。おまけに立場も年齢も近い彼をどんなにからかったところで咎める人間はあまりいない。
 悪戯が過ぎて中原が泣いて悔しがったところで、彼の姉貴分でさえ笑って「太宰の坊主に嫌がらせを受けたぐらいで泣くでない」と嗜められる始末だ。

(中也、今回はどれぐらい怒るかな。殴られちゃったら嫌だな。
 それでも中也は私のなんだから、当然、許される!)

 太宰は水面の月に夢中になっている中原に近付いた。
 そしてドン、と突き落とす。

 ボチャンと派手な音がした。中原は「ぎゃああ」と叫び、ばしゃばしゃと水を掻いてボートに捕まった。
「手前ぇぇえ!!!!」
「あっはは。ほら、出来たでしょう?」
「ああ?!」と中原は凄む。それでも太宰はへらりと笑って水面を指差した。
「月面着陸!」
本物の月には行けないけど水に写る月なら、と太宰は笑う。中原は馬鹿みたいな顔をしていた。
「手前、馬鹿だろ」
「失敬な!」
はああ、と脱力したようにため息を吐く中原に太宰は満足げに胸を膨らませた。そして「ほら、上がっておいで」と手を差し出す。その手を中原はジッと見て、驚いたように太宰を見る。
「……私だって、手ぐらい貸すよ」と言えば「明日は槍が降るな」と言われる。
しかし中原の頬はほんのりと色付いていた。その反応に気をよくして「飼い犬の世話はちゃんとしないといけないからね!」と口走った。

 それがいけなかった。
 中原の顔から表情が削ぎ落とされた。ヤバいと思った時にはもう遅い。
「手前も道連れだ馬ァ鹿!」
そんな叫び声と共に腕を引っ張らればしゃんと派手な音を立てて転落した。

「ばーか。太宰のばーか」
「中也のがき。ちびっこ」
べえ、と舌を出す中原に「沈めてやろうか」と物騒な考えが頭をもたげる。
 しかし、太宰は彼の腕に引っ付く中原を見て口角を上げた。
「へーえ、君、もしかして……ふーーん」
「………んだよ」
決まり悪そうに太宰から目をそらして唇を尖らせる中原に単純すぎるなあと内心では心配しつつ「中也泳げないんだあ」と意地悪く指摘した。
 案の定中原は悔しそうに太宰を睨んで「そうだよ。悪いか」と太宰の腕にすがり付いていた。
「うふふ。もし私が中也の腕を振り払ったらどうなるかなあ」
「やめろ!」
必死になって太宰の腕を離すまいとする中原の姿に愉悦を感じた。心が満たされていく。馬鹿な中也。私が中也を離すわけないじゃないか!
 それでも太宰は中原に「溺れたくなかったら私の命令聞いて」と高圧的に云い放った。
「岸に上がったらその首輪、頂戴」
「わわ、分かった。分かったから! 絶対話すなよ!」
中原は首輪どころでないのだろう。その反応に面白くないなあと少しがっかりしながら「約束だからね」と念押しをする。おそらく中原は聞いちゃいないのだろうか、それでも念押しをせずにはいられなかった。

「酷い目にあった……」
岸に上がった中原は四つん這いになって息を荒げている。
 太宰がボートを使わずに岸まで泳いだからだ。勿論、中原は騒ぎ立てたが泳げないから太宰に掴まるしかない。
「いやあ、私にすがり付く中也なんて、面白くてとても良かったよ!」
満面の笑みを浮かべる太宰に怒る気力すらわかない。
「早く首輪、頂戴」と太宰に急かされてもポイと投げつけ脱力した。

 太宰はというと嬉しそうに首輪を手に持ち、そのまま湖に投げ捨てた。
「嫌がらせが徹底してんじゃねえか」と中原は項垂れる。
 しかし太宰は「嫌がらせなんかじゃないよ」と云った。
「私はアレが大嫌いなんだ」
「チョーカーが?」
「違う」太宰は中原の喉ーー首輪の跡に指を這わせた。
「あれ、ドッグタグ替わりだろう」
「………気づいてたのかよ」
「当然」
太宰は中原を叱りつけるように額を指で弾いた。彼の首輪の裏には彼の名前と血液型が記載されていた。
「中也にドッグタグなんて必要ない。中也が死んでも私が、私だけが中也を分かればそれでいい。
 だって中也は私の相棒なんだから。組織のじゃなくて、私のなんだから。
 いいかい、これからも絶対にドッグタグなんて付けないで。これはお願いじゃなくて命令だよ。」
中原は「傲慢なやつ」とだけ呟いた。

 それから二人はずぶ濡れのまま、組織にある彼らの寮へと戻った。中原は「部屋が濡れるから私の部屋に来なよ。私が原因だし、反省しているんだ」と殊勝な態度を見せた太宰に絆され部屋に入ったが、途端に身ぐるみ剥がれベッドに投げられた。
 なにしやがると喚く彼に太宰はあっけらかんと「私冷えちゃったし湯タンポにしようと思って。服は濡れてるし流石に脱いでもらわないと……」と云った。
「じゃあ着替え寄越せよ!」
「それは、無理。だってここ、私の部屋じゃないし」
「はあああ?!?!」
「濡れたまま廊下を歩き回っていたら寮を抜け出したことがバレて面倒なことになるから一番外から近い部屋を拝借したのだよ。ちなみに部屋の主は出張中さ」
 太宰も衣服を脱ぎ捨てていそいそとスーツに潜り込む。
 体をぴたりとくっつけると、やはり、温かい。やめろくっつくなと文句を云う中原も、温かさが心地よかったのか、無理には引きはがそうとしない。
(いくら私を信頼してるからって、素っ裸で同じベッドに寝てる異常性に気づかないって……中也大丈夫かなあ)
しかし太宰もこれ幸いと抱き枕よろしく中原を抱き寄せて冷えた体を温める。
(ああ、これは、やばいな。温かくて気持ちがいい。中也、湯タンポとして優秀すぎる。癖になりそう)

 ふと、腹回りをぺたぺたと触られている感覚がした。中原が太宰の腹を触っていたのだ。
「手前、ほんっとうに筋肉ねえなァ」
「触ンないでくれない。中也のえっち」
「死ね、軟弱野郎。いいから早く寝るぞ」
「はいはい。お休み中也」
「おう」

部屋には二人分の子どもの寝息が響いた。

03

 太宰治との関係について訊かれれば元相棒だと答えた。ついでに彼の悪口をたんと聞かせてやれば相手は大抵苦笑混じりに「中也さんがそこまで云うなんて、よっぽど仲が悪かったんですね」と云う。

 確かに中原は太宰を蛇蝎の如く嫌っていたし、思い出すだけで胃がムカムカするような記憶ばかりだ。
 それでも太宰との縁を切ることが出来なかったのは、中原自身が不覚にも彼のことを半身であるかのように認識しているからであった。それを自覚させられたのは四年ぶりの共闘。もはや背負うものも纏う世界も変わってしまったというのに、四年の空白など感じられなかった。
 きっと心臓と心臓とが蕀か何かで繋がっているのだろう。繋がりが深くなればなるほど蕀が互いの心臓を傷つけ血を流させるのだ。

 
 その日、太宰は四年前を思い出させるような暗い瞳のまま中原の前に姿を現した。
 何の用だと訊けば「月に連れていってくれよ」と太宰は云った。中原は瞠目して「馬鹿じゃねえの」と返した。

「なんでよ。君、昔月に行くんだーって行ってたじゃないか」
ボートに乗ろう。そして池に飛び込むんだ。
 太宰は懐かしむように目を細めた。
「びしょびしょになったら、私の部屋に来るといい。それで、あの時みたく二人で素っ裸になって一緒の布団に包まろう」
熱に浮かされたような太宰の瞳に中原の体は頭が考えるより先に「分かった」と口走っていた。

 そこからは昔の記憶の再現だった。
 とんだ茶番だった。

 湖に行って太宰がボートを漕ぐ。太宰が中原を湖に突き落とし、中原が太宰の腕を掴んで湖に引きずり込む。太宰が中原を背負って陸に上がるとチョーカーを湖に投げ捨てられた。
 そうして太宰に腕を引かれ、全身濡れ鼠のまま探偵社員寮の彼の部屋にあがり、二人して素っ裸になって一つの蒲団に潜り込んだ。

(いい年した大人が、何やってんだかなあ)
中原は背中に感じる温もりにげっそりしながら目を閉じた。

(最後にこいつと寝たのは、十八……いや、十七の時か?)
うつらうつらとしながら中原は考える。
 彼らは体の関係を持っていた。いつの頃から始まった関係だったのか、はっきり覚えてはいない。
「中也」と太宰が中原の名を呼んで「今日、堪えられないぐらい嫌なことがあった」と愚痴り始める。それを話し半分で聞きながら中原が「ぐちぐち五月蝿い」と文句を云う。すると太宰が中原を押し倒して「慰めて」と甘ったれた声を出すのだ。
 中原は何時だってその声に逆らえない。「どうぞ」とばかりに両手を差し出し自ら貪られにいく。何時もそうやって行為は始まった。

 沈んでいく意識の中で、中原はふと、ボートから見えた月を思い出す。
 水面に揺れる月は、中途半端に欠けていはしなかっただろうか。あれでは月面着陸できない。再現は失敗だ。思わず中原は頬を緩ませた。

 その時だった。突然腹に鈍い圧迫を感じる。
 ぐんと意識を浮上させ目を開ければ太宰が馬乗りになって中原を見下ろしていた。
「ねえ中也」と太宰が背筋が凍るような、とてつもなく甘い声を出す。
「セックスしようよ」
そう言うや否や、太宰は中原に覆い被さるように体を密着させた。
「………駄犬と獣姦する趣味はねえよ」
足と足を絡ませ腰を揺らめかせる太宰の額をぺしぺしと叩きながら云った。太宰は「わん」と低く掠れた声で鳴いて犬のように顔を舐め回す。
 興奮したような太宰の息づかいを感じながら中原はむわりと噎せかえるような匂いを嗅ぎとった。

(…………血の匂い。こいつからだ。
 据えた匂い。ツンと鼻を刺激する酸っぱい匂い。溝の匂い。
  嗚呼、これは、嗅ぎなれた「夜」の世界の匂いだ。)

 それは昼の人間には勿論、昼と夜の狭間である夕刻の人間にしても濃すぎる「死」の匂いだった。
「……手前、何人殺した」
中原は訊いた。太宰は肩をびくりと跳ねさせ咎めるように中原の喉元を噛んだ。薄い皮膚が破かれじくじくとした痛みが広がる。
 痛みに小さく喘ぐと宥めるように傷口を舐められる。それと同時に太宰の手が腰や内腿を這いまわる。中原は相手の性感を煽るその手の動きに舌打ちをくれてやった。
(このまま流されて駄犬のストレス発散のために掘られんのは死んでも嫌だ)

 中原にとって太宰が探偵社で何をしようが、組織の邪魔にならない限りどうでもいい。しかし、太宰が自分を使って仕事のストレスを解消しようとしているなら話は別だ。
 「……武装探偵社は依頼があれば殺しもすんのか?」と煽り立てるように云ってやる。「それとも、お偉い武装探偵社サマがどこぞの悪党に正義の鉄槌でも下したってか?」
 太宰は手の動きを止めて「探偵社は、誰も、殺さない」と唸った。
「手前も探偵社だろうが」
「探偵社としてではなく、太宰治という個人として殺した。だから、探偵社は、誰も殺していない」
「そんなケツの青い餓鬼みてぇなこと云うたぁ、手前も落ちぶれたもんだ」
天井のシミを眺めながら情けなく笑った。
 太宰治は変わらない。身内と認めた者以外の生死などどうでもいい。心の底から悲しむことなど出来ないのだ。そのくせ一般的な善悪は解するのだから、笑ってしまう。だから苦しむのだ。
 陽射しの中で生きようするのに、太宰はあまりにも夜の人間だった。

「ねぇ中也ぁ」と太宰は甘ったれた声を出した。
「私さぁ、私の血は誰よりもマフィアの黒だーって言われてさぁ、一丁前に傷ついちゃったのだよね
 ーーーー図星だから。
でも、人って変わるものだろう? そうだよね?

 …………私は変わった。夜の人間じゃない」
そうでしょうと太宰は中原に問う。

 どうだろうか、と中原は太宰の蓬髪を撫でながら考える。
「…………少なくとも、手前の居場所は何処にもねえってことだな」
「なにソレ。酷い」
期待した言葉を得られずムッとする太宰の頬を思いっきりつねった。
「首領は手前を幹部に、だなんて云うがよ。手前の席なんてねえからな」
それ三流悪役か苛めっ子の台詞だよ、と云う太宰の言葉は無視して中原は続けた。
「いくら手前の手腕が衰えてないとしても今の腑抜けた手前にゃ組織に居場所なんざねえ。
 そんでもって、手前は陽射しの中で生きる真っ当な人間になれねえよ」
中原の言葉に幾らか傷ついた顔をして見せる太宰に、にやりと笑ってみせる。
「手前みたいな夜でも昼でもない中途半端野郎は、昼でも夜でもない中途半端な武装探偵社がお似合いってことだよ」

 これに対して太宰は顔を赤くして、それから青くして、その後泣きそうにくしゃくしゃに歪めてから不機嫌そうな顔をして、最終的に林檎のように顔を赤くさせた。
 中原はその百面相を楽しむと「真っ当な人間はたとえ嫌いな相手でも強姦したりしない」と優しく教え諭し、太宰の股間を蹴りあげる。
「次にその粗末なモン俺に擦り付けたらちょん切ってやるから覚悟しやがれ」
太宰は突然の急所への攻撃に身悶えながら「強姦じゃなくて和姦だった」と冤罪を主張した。

「…………やっぱりセックスしようよ。気持ちよくなれるし温まれるし、悪くないだろ」
「やなこった。手前とのセックスは自傷行為みたいなモンなんだよ。ぜってえヤらねえからな」
「………いじわる」
私をその気にさせたのは中也なのに、中也に私の純情を弄ばれた。
そう云ってさめざめと泣くふりをする太宰の脳天にこぶしを落とす。
「いいから早く寝るぞ」
「はいはい。お休み中也」
「おう」

fin.