MAIN文豪ストレイドッグス長編

眩惑の泡,或いは泡沫の日々


「どうしてあの子を死なせてしまったんです?」コランは尋ねた。
「うーん、あまりこだわりなさるな」イエスはこたえた。




chapter2.私の愛しい男たちよ

 中原中也は醜い子どもだった。尾崎紅葉はそう記憶している。

 尾崎は中原の過去を知らない。ただ、よく覚えているのがXに拾われたばかりの頃の事だ。彼が同年代の子どもらから揶揄われているのを見た。
「お前、女みたいな髪してる」
「これも女の外套だろ」
「……」
「本当は女の子なんじゃねえの」
十に満たない少年らの幼いながら残酷な弱肉強食の世界を尾崎は垣間見る。幼い中原は着ていた外套を脱がされぷるぷると震えていた。
(いじめられているのか。
 ……しかし何も云い返すこともしないなんて、なんと情けないこと!)
紅葉は虐められている少年を観察した。腰まで届く長い髪に枯れ木のような体の彼は確かに少女のようでもあったが少女というにも可憐さはなく、唯々哀れさを感じさせる子どもだった。
「お前、細すぎて気持ち悪い」
「…………」
「喋れねーのか」
小突き回されても抵抗もしない少年はあまりに哀れで情けない。
(助けてあげた方がいいかしらん)
尾崎は逡巡する。
(でも助けてあげたところで、ああいう子は、すぐに死ぬ)
かわいそうだけれど、此処は弱肉強食の世界だから。
 尾崎が幼い中原を見殺しにしようと目をそらしたその時だった。
「この外套、お前の母親のもんか?」
「お前、母親に売られたんだろ」
「これ趣味悪ぃな」
少年らの言葉のどれが彼の逆鱗に触れたのかは知らない。しかしどれかが逆鱗に触れてしまったのだろう。
「五月蝿ェえええ!!!」
耳をつんざくボーイソプラノ。直後、地面が割れる音。迸るのは激しい怒気。
 尾崎が弾けるように少年らを見れば中原が奪われた外套をひったくっていた。そして懐からナイフを取り出すと外套をずたずたに引き裂いた。なんの躊躇いもなく――否、いっそ憎しみさえ込めて、上等な女物の外套を布切れに変えたのだ。次いでその豊かな己の赤毛を掴みザクザクと切り落としてしまう。
 それを皆一様に口をあんぐりと開けて見ている。尾崎もその一人だ。少年の爆発はあまりにも突然だったのだ。

 中原はナイフを地面に投げ捨てると走り去った。
 尾崎は思わず中原を追いかけた。

 

「そこの新入り」
裏庭で泣いている中原に声をかけるとびくりと震える肩。尾崎は彼の腕をむんずと掴むと有無を言わさず自室まで引っ張っていった。
「ええと……」
何ごとかとぎょろりとした瞳に警戒を湛える中原に「怖がるな」とだけ云って椅子に座らせる。
「髪を整えてやるだけだ……私の名は知っておるか」
「……尾崎、紅葉」
「歳上じゃぞ。敬語をお使い」
「尾崎紅葉さん」
しゃきん、しゃきん、と尾崎は中原の髪を整えてやる。意外だったのは、手入れが行き届いていたこと。
「そなた、重力遣いの中原中也じゃろう」
「なんで知ってるんですか?」
「X殿が云っておった」
「そっか」
「…………」
「…………」
しゃきん、しゃきん、しゃきん。鋏の音がやけに大きく聞こえた。

「……俺は餓鬼だから」
沈黙に堪えかねたらしい中原がぽつぽつと話し出す。
「問題を起こしたら、此処を追い出されちゃうんじゃないかって思うと怖いんです」
 しゃきん しゃきん
「この前も、綺麗な黒い男の子に君は死ぬって云われた」
 しゃきん しゃきん
「そういうの聞くと、むかーっとして、目の前が真っ赤になるんだ。そういう時は下を見て割れるな割れるなって心の中で唱える。そんで、お腹に力を入れるの。怒らないように」
怒ると地面割れちゃうから。
 しゃきん しゃきん しゃきん
「けど、やっぱり思い出すとむかむかする。でもむかむかすると持ってるコップとかが割れちゃうんです」
 しゃきん しゃきん
「だからX様は俺の食器を全部シリコンにしやがった。そうするとね、コップもお皿もぺこっとなるだけだからって」
ぶふっと尾崎は吹き出した。
「わ、笑わないでください!」
「すまぬすまぬ……ほら完成した」
尾崎は手鏡を渡した。鏡に写ったのは顎の辺りで切り揃えられた赤毛だ。
「ぁ、すごい……」
中原は顔を輝かせた。
「どうじゃ?」
「ありがとう、ございます」
尾崎は満足げにふんと鼻をならした。
「先程の話じゃがな、男ならしゃきっとせえ。異能の使い方なら私が教えてやる。堂々としておればよいのだ。私だってそれぐらいの時は異能の扱いに困ったものだから」
それを聞いて中原の顔が柔らかく綻んだ。それだけで醜い彼の顔が幾分、愛らしく感じる。
「そなたは幸か不幸かマフィアに拾われた。喧嘩なら相手が死なぬ程度に思いっきりせい。成績さえ良ければ上は何も云わぬ。……それに、地面に罅でもいれちゃったってよかろう?」
私は面白いと思うけど、どうじゃ。尾崎はニヤリといたずらっ子の顔を見せた。
「本当か?!」
先程のおどおどとした少年はどこへやら。
「ああ。あの他のヤツラの間抜け顔!見ものじゃった」
中原は嬉しそうな顔をして頬を紅潮させ、それから凶悪な顔をして「あいつら、絶対泣かす」などと物騒なことをぶつぶつと呟いた。
(あれ、ちょっと間違えたかの?)
本来の彼の攻撃的な一面を見た気がして思わず顔を引きつらせた。

 ごほんと咳払い。
 尾崎は中原に目線を合わせる。
「それと、泣きたかったら私のところへ来い。男が外で涙を見せるものではないぞ」
中原は一瞬顔を歪ませ、それでも抵抗するように口を引き結んでくるりと背を向けた。
「ありがと…………」
とても小さな声だった。
「まずは沢山お食べ。そなたは細すぎる」
「紅葉さん、母さんみたいですね」
「…………せめてねえさんにしてちょうだい」
 一端の庇護欲にかられた齢十二の少女は、その日から赤毛の少年の姉となった。

 それから中原中也という少年は、みるみるうちに美しい少年へ脱皮した。尾崎の云った通り、おどおどするのをやめ、代わりに売られた喧嘩は喜んで買った。生来、彼は血の気の多い少年だったようだ。そして地面にクレーターを生成してはXら大人に大目玉を食らうのだ。
 しかし大人たちは彼を追い出そうとはしなかった。もとより運動神経は良かったのだろう。戦闘訓練ではトップの成績を誇っていたこと、そして何より素直で大人の云うことを良く聞いたことが大人たちの態度を柔らかくさせていた。彼は自身の才能と努力、そしてその無邪気さゆえに愛されていたのだと尾崎は思った。

 だからこそ、彼の「小学校に行きたい」などと云うふざけた願いをXが聞き入れたのだろう。
「姐さん!姐さん!俺、小学校に云ってもいいって!」
そう云って尾崎に抱きついて全身で喜びを表す。
「姐さんがX様に云ってくれたお蔭だな!」
そう云って中原は昼の世界と夜の世界を行き来するようになった。




 ところでこの尾崎紅葉には憧れの人がいた。夜を生きているのに昼の世界の温かさを持った優しい歳上の人だった。尾崎は男に恋をした。
 少女の淡い初恋である。
「紅の字、君は昼の世界を知っているか?」
「知らない」
「じゃあ教えてあげよう」
男は尾崎に昼の世界を教えた。硝煙と血の匂いではなく、太陽の匂いのする世界。尾崎には想像もつかなかった。
「中也や、昼の世界とはどんな匂いがするものかしらん」
「匂い?」
小学校に通う弟分はうんうんと唸って考え込む。
「草木の匂い」
「それは、夜の世界と何が違うというの?」
分からねえよと困ったように弟分は云った。
「……俺には、何も違わないように思う」
何も違わないなら、私も昼の世界に行っても良いのだろうかと少女は瞳を輝かせた。

 そうして十四になった少女は男の手を取って昼の世界へ飛び出した。
 昼の世界は大層明るくて光に満ちていて、少女の胸は希望に溢れていた。
(昼の世界の人たちは誰かを殺そうとしないし傷つけようともしない)
少女はぎゅっと男の手を握る。そして「幸せになろう」とはにかんだ。男もまた「幸せになろう」と少女の手を握り反した。
 そして二人は笑いあった。男の頭が吹き飛ぶその瞬間まで、尾崎は世界から祝福されていた。



***



(沢山殺した)
尾崎は天井のしみを眺めながら殺した数を数えた。
(ひぃ、ふぅ、みぃ、よ……)
数えることに意味なんてない。それでも尾崎は数えた。
(不思議。暗殺は慣れていたのに、昼の世界で殺しをするのはまったく違って思える)
出奔は未遂に終わり、男は組織に殺された。尾崎は怒り狂った。怒りのまま刃を奮った。そうして気づけば昼の世界は尾崎を拒絶していた。もはや組織に戻る他なかった。
(闇の花は闇でしか生きられぬか……)
組織に戻ると森医師が「可哀想に」と部屋を貸し休ませてくれた。
(あの人は、闇の人。でも、敵じゃない)

 ぎい、と扉の開く音がした。
「中也か」
「姐さん……その、大丈夫?」
自分が怪我をしたわけでもないのに悲痛な顔をして目を潤ませる弟分。
 この子にこんな顔をさせてはならぬと思うが頭と心は乖離して、少女の瞳からぽろぽろと涙が零れた。
「私は、分不相応な夢を見た罰を受けてしまったの」
「夢?」
「昼の世界に憧れた。闇にしか生きられぬのに、それに抗ってしまった」
「……昼の世界
    夢………?」
弟分は考え込むようにそっと目を伏せる。その表情が小さな大人みたいで、どきりとした。弟分が自分を断罪するのではないかと馬鹿げた妄想すら浮かんだ。
「姐さん、昼の世界は夢なの?」
「っ、ああ、昼の世界はまさしく白昼夢であった。私には掴めぬ実態のない幻じゃ」
「……違うよ、姐さん」
弟分は悲しそうに、哀れむように少女を見た。
「昼の世界は、夢じゃなくて現実だよ。すぐ隣にある現実。月の裏側より近くて、でも月の裏側よりも遠い現実なんだ。俺、学校に――昼の世界に行ったから分かる」
 ぱしん、と乾いた音が響いた。
 中原は何が起こったのか理解できないという風に目を白黒させていた。
「姐、さん……?」
尾崎はハッと自分の掌と、それから赤くなった中也の頬を見る。
 打ったのだ。彼の頬を。
 何故か?――嫉妬したのだ。
 何にか?――彼が未だ昼の世界と夜の世界の狭間にいることに。
「あ、ああ……」
尾崎は「違う」と「すまない」を繰り返す。
「中也、違うのだ……否、すまない。痛かったであろう?私が悪かった。だから……違う、そうではなくて、」
中原は大きな目でジッと尾崎を見た。灰色がかった瞳は凡てを見透かしているようで、居心地が悪い。そうして中原の瞳は暗い輝きを放った。それは、まさしく蛹が蝶に変わるのかの如く、劇的な変化であった。
「姐さん、俺、学校やめる」
「、……ぇ、」
「奴らと俺は、生きる世界が違う――否、違うな。在るべき世界、許された世界が違う。
 昼の世界は俺たちをいつだって拒絶しようとするんだ。そんな所、こっちから願い下げだ。棄てちゃってもいいじゃないか」
そう云って中原は尾崎の頭を撫でた。小さな手で、背伸びをして、まるで異能の訓練をしている時のように真剣な顔をして、尾崎の頭を撫でていた。
「中也?」
「泣いてる人にはこうするって。教わった」
誰に、とは聞かなかった。ただ、その仕草がどうにも優しくて、一生懸命で、温かくて、悲しくてならなかった。
「中也や、私は悲しい」
「うん」
「悲しくて憎くてどうにかなってしまう。だから、私は闇の道を行く」
「うん」
「そなたも私と同じじゃ」
「うん」
「だから、決して……そなたは、」
「俺はずっとずっとマフィアで生きていくよ。ここに来た時からずっとそういうふうに、決めてたンだ」
誰よりも強くなる。だから見ていて。
 尾崎は中原の大きな瞳に窶れ果て夢破れ襤褸雑巾のようになった少女が写っているのを見た。
(これが今の私か)
尾崎は思わず中原の頭を抱き締めた。その瞳をどうしても隠してしまいたかったから。


 一年と半年が過ぎた。マフィアでは体のお加減の悪い首領に代わり森が次期首領となるのではないかと噂されていた。
(放っておいたところで首領は死ぬ。だが、今の首領はただの耄碌爺。五大幹部が組織の手綱をひいておるからまだ良いものの)
横濱の黒社会はあちこちに火種が転がる弾薬庫だ。いつどこで血腥い戦争が起こってもおかしくはない。自然と彼女の眉間に皺が寄った。
「姐さん」
くい、と袖を引っ張られる。
「なんじゃ」
「怖い顔してる。姐さんまだ二十にもなってないのに眉間に皺が出来るぜ」
「……こンの小童が」
中原の頭に拳骨を落とした。


「おや、鴎外殿。ごきげんよう」
のーさいぼーが死んだと騒ぐ中原の耳を引っ張っていると二人の少年を連れた森の姿が見えた。
「ああ、こんにちは……ほら二人とも、挨拶して」
「……こんにちは」
「こんにちはー!」
森の庇護下に置かれた二人の少年の名は太宰治と夢野久作。有名な二人であった。
(自殺愛好の天才少年と、呪いの子か)
尾崎は目を細めて「ごきげんよう」と微笑みかける。しかし太宰は中原に興味を移し、夢野はもはやあらぬ方向を見ている。
(まったく、鴎外殿に似て掴み所のない童だこと)
中原は「森医師、こんにちは」と帽子を胸に深々と礼をしていた。
「ではこれで」と中原を連れ尾崎は歩き出した。
(もしも、)
尾崎は考える。
(もしも鴎外殿が首領の息の根を止めたなら。そうやって鴎外殿が首領の座に付いたとしたら――――それでも私は………いいや、中也は?この小さな中也はどうする?)
くい、と再び袖が引っ張られる。
「ねえ姐さん、あいつ、誰です?」と中原が訊く。
「あいつ?」
「ほら、森医師と一緒にいた包帯を巻いた変なやつ」
俺と同じぐらいの年だと思うんだけど、と中原はうかがうような視線を寄越した。

 ふと、尾崎は閃いた。
 この子が闇の世界で生きるのに、あの子が使えるのではないか。
 中原は十二になった。今でこそ物分かりの良い子であるが、かつて自分が出奔を企てたのと尾崎と同様に光の世界に憧れでもしたら、この子が傷つきでもしたら、私は私と世界を赦さないだろう。
「今日は友達とサッカーした」
「今日、俺の誕生日だって言ったら皆がプレゼントくれた」
「あいつらと遊ぶの、好きだ」
思い出すのは昼の世界の人間との交流をはにかみながら報告する幼い弟分の声だ。
(私の小鳥。強い昼の世界の光にその目を焼き潰される前に私が守ろう。友達が欲しいのならば、お誂え向きの少年がいるではないか)
「中也君と太宰君は異能の相性がいいから、きっと二人でお仕事するのがいいと思うんだ」
いつだったか、森はそう云っていた。
「太宰君は少し困った性格をしているんだけどね。きっと中也君なら大丈夫だよ。私は彼が最適解だと思っている」
そうも云っていた。
 森の云う通りだ。彼らが親友になれば、愛する弟は光に憧れることがないのではないだろうか。あの闇を湛えた瞳の少年が小さな小さな私の小鳥を夜の世界に留めてくれるだろう。

「あの子の名は太宰治という。森医師のところの秘蔵っ子じゃ。お前と同い年だから、お友だちになっておやり」
ぽんと優しく頭を撫でる。
 彼女の弟分は「友達、友達、友達」と繰り返し、ちょっと困ったように眉をハの字にさせて「あんな、空に浮かんだ青鯖みたいなやつ、俺は嫌だ」と宣った。
「まあ……」
ほほ、ほ、と笑いがもれる。
 嗚呼、嗚呼、これで一安心。私の愛するこの子は道を違わずに夜の世界を羽ばたくことができるだろう。