MAIN文豪ストレイドッグス長編

眩惑の泡,或いは泡沫の日々

大切なことは二つだけ。どんな流儀であれ、綺麗な女の子相手の恋愛。そしてエリントンの音楽。ほかのものは消えていい。なぜなら醜いから。




chapter4.青少年よ、我に帰れ

 ポートマフィア本部ビルのすぐ隣の廃墟。錆びついた門の前に太宰治と中島敦は立っていた。
「気乗りしないねえ」
「はい。気乗りしませんね」
太宰と中島は溜め息をついた。

 探偵社に来た依頼はこの廃墟の地下室にあるデータを全て破壊すること。簡単に思えるがその数が膨大であった。
 依頼主はとある闇組織の元構成員。市警に組織を売り飛ばした内部告発者である。
組織はマフィアの目と鼻の先の廃墟を隠れ家にして違法な売春の斡旋を行っていたらしい。
「全く、ポートマフィアも嘗められたものだよね……と言いたいところだけれど、恐らく売春の斡旋程度なら黙認していたっていうのが正しいのかな」
太宰がやれやれと首を振る横で中島は険しい顔をしていた。
「勿論この売春の斡旋は非合法的な行為だったし社会的に許されるものではないよ。……斡旋されていた女の子たちは半ば強制的に春を売らされていたようなものだからね。けれどマフィアにとっては“その程度”なのさ」

 今回、荒事専門と言われる探偵社が動いたのは隠れ家として利用されていた廃墟があまりにマフィア本部に近いためだ。
 破壊すべきデータは二種類。一つは無理矢理働かされていた女性たちのデータ。もう一つが異能を持つ構成員のリストである。問題となるのは二つ目であった。どうやらこのリストは依頼主がポートマフィアから求められていたリストらしい。
「依頼主さんはポートマフィアに脅されていたって云ってましたけど……」
「半分ウソで半分本当だろうね。
 おおかた、彼はギリギリまで組織をポートマフィアに売るか市警に売るか迷っていたのだろう。ポートマフィアにとってあんな組織など零細企業にすぎないが、流石に目と鼻の先では目こぼしできるものも出来ない。
 彼は怖かったハズだ。彼のボスは組織に視覚操作系の異能者がいて見つからない自信があったのだろうがね。見つかってお仕置きを食らう前に……って思ったのだろう」
「ポートマフィアはリストのことを知っているんでしょうか」
「可能性は高いが……それよりもマフィアがそのリストを欲しているかが問題だね。さあ、行こうか」
「はいっ!」
二人は廃墟に足を踏み入れた。
(最後にここに来たのはいつだっけね)
思い出すのはランドセルを背負った幼い頃の中原が塀を走り回る姿。
 廃墟となったこの場所はXの所有地、マフィアに拾われた子どもたちの寮であった。


「でも、意外でした。太宰さんはこの仕事を受けないと思ってましたよ」
「へえ。そりゃなんでだい?」
「……だってここは、マフィアに近すぎるじゃないですか」
中島はデータを火にくべながら云った。
「勝手知ったるなんとやらという奴さ。それに、今回の依頼主はきな臭いからね……マフィアの方の事情を汲める私が現場にいた方が何かといいだろう?」
「それは……そうなんですか?」
中島は何か云いたげに太宰を見た。紫と黄の混ざる瞳が不安げにゆらいでいる。
「私がマフィアに捕まるんじゃないかって心配かい?」
私はそんなヤワじゃないし停戦中だから彼方もそんなことしないさ。そう優しく云ってやる。しかし中島は「そうじゃなくて、」と云った。
「太宰さん、気乗りしないって云ってましたよね。もしかして此処に何かトラウマ、みたいなのがあるんじゃないかなって思って…………」
優しい彼らしい気遣いが見え隠れする。
「余計なお世話でしょうけど、無理しないでくださいね」
(君は眩しいくらいに昼の住人だね)
太宰は口の端をちょっとだけ上げた。
「トラウマはないよ。ただ、昔此処で友だちごっこした事があってね。懐かしいんだよ」
中島はこてんと首を傾げて「友だちごっこ?」と繰り返す。子どものような仕草に思わず吹き出せばムッとした様子で「太宰さん、友だちいなかったんですね」と刺のある言葉を投げつけられた。
 そういえば、その友だちごっこをしていた彼もそんな反応をしていたと思い出した。




「友だちごっこ?」
紅茶色の彼はこてんと首を傾げる。さらりと顔にかかる髪を耳にかけてやりながら太宰は「そう、【友だちごっこ】。登場人物は【君】と【私】の二人」と微笑んだ。
 朝、少年が学校に行くまでの数十分だけのささやかな交流。【友だちごっこ】は太宰が少年の口から語られる小学校での友だちの話を聞いて提案した。少年はぱちくりと数回目を瞬かせていた。
「ね、いいでしょう?きっと楽しいよ」
手を合わせて懇願すれば少年はくるくると瞳を動かして悩み(「君って友だちいないんだな」というのは聞かなかったことにした)、「君がやりたいなら」と了承した。太宰は思わずガッツポーズしそうになるのを抑えて「そうこなくっちゃ」と余裕のある態度を作る。
「いつまでやるんだ?」と少年は訊く。
「うーん……じゃあ君か私のどちらかが飽きるまでにしよう」
「遊びが終わったら?」
「終わったらもうそこで終わり。【君】との【友達】は解消ってわけ」
太宰が云うと「友達ってそういう物じゃねえぞ」と彼は大真面目に返した。
「……【君】が【私】に飽きなければ、ずっと【私】たちは【友達】だ」
太宰は彼の手をぎゅっと握り上目遣いで相手の目を覗きこむ。こうすれば大体の人間は陥落する。計算された行動だった。実際彼は顔を赤らめ居心地悪そうにしていた。
「いいでしょう?」とだめ押し。
「分かった。俺、負けねえから」
「……勝負事ではないのだよ?」
「似たようなもんだ」
彼ははにかみながら「これは【俺】と【君】の秘密だからな」と小指を差し出した。
 ぽかんと小指を見る太宰。彼は太宰の手を取り小指と小指を絡ませた。
「いいか。これは指切りっていうんだぜ。約束をする時にするんだ」
「それぐらい知ってる。やったことないだけ」
彼は何が嬉しいのか小指を絡ませたままブンブンと腕を振った。
 斯くして彼ら――太宰と中原の友達ごっこは始まった。

 【彼】でいるときの中原は献身的と云っていいほど太宰に優しかった。太宰がどんな我が儘を云っても中原は彼の瞳を覗いては「仕方ないなあ」というふうに笑っていた。時おり「友達ってもっと、こう……違うと思うぜ」と云っていたけれど、「ごっこだから良いんだよ」とはぐらかした。彼は明らかに納得していなかったけれど気まぐれに優しくすれば嬉しそうに笑うので太宰は調子に乗った。太宰は中原を怒らせては「ごめんね。でも、【君】は【友達】だから、許してくれるでしょう?」と云って抱き締める。そうすれば中原は顔を真っ赤にさせて「【君】は友達を勘違いしてる」と呻いた。その顔をもっと見たいと思うが、あまりやり過ぎるのは【友達】として正しくないので自重した。
「【君】は【私】のことが好きだよね」太宰は訊く。
「うん。好き。【友達】だからな」中原は云った。
太宰は中原の「好き」にくらくらと目眩がしそうな心地だった。
 中原は求めればいくらだって無条件に「好き」をくれた。【友達】はそういうものだとルールを決めたのだから【私】の【友達】である【君】が【私】を「好き」なのは当然だ。それでも素直に「好き」をくれる彼に溺れていた。

「【私たち】、一つになれるかもしれない」
そう云ったら彼は大きな目を見開いていた。顔にはありありと「何云ってんだ此奴」と書いてある。
「一つになれたら、素敵だね」
「一つになるなんて、出来ない」
「いいや。出来るさ」
彼はとても困ったような顔をした。
「私は君のこと好きだよ。一つになりたい」
「君が俺のことを好きなんじゃなくて、【君】が【俺】のことを好きなんだろ。俺は君のこと嫌いじゃないけど、そういうところは好きじゃない」
「嘘だ。君は私のことを好きだし私も君のこと好きだよ。絶対にそう」
「うーん、君はもうちょっと友達とか周りの大人に甘えたほうがいいと思うぜ」
この時の彼は幼い顔に大人の表情で太宰を優しく諭すものだから、太宰は問答無用で彼を抱きしめ押し倒し裏庭をごろごろと二人で転げまわった。彼は「きゃあ」と子どもらしいボーイソプラノの叫び声をあげた。

 そんな日々は約二年間続いた。先にその時間を棄てたのは中原だった。彼は何の予告もなく、その場所に姿を見せなくなったのだ。
 死んだのだと思った。彼はマフィアの子どもだったから。マフィアの子どもの平均年齢を太宰はよく理解していた。
「残念だなあ」と独りごちる。なあんだ、死んじゃったんだ、つまんないの。
 以来、太宰はその場に足を運ぶことはなかった。



「……いさん、太宰さん!」
耳元で名を呼ばれびくりと肩を揺らす。
「どうしたんだい?」
「どうしたんだい、じゃないですよ。こんな時に太宰さんがぼーっとするなんて珍しいですね」
「私はいつも仕事熱心だけど、そういう時もあるさ」
「……………」
「……………」
「…………………ところで、さっきからこの塀をじっと見てますけど何かあるんですか?」
二人は裏庭の塀の側にいた。地下室のデータを破棄し、序でにたまたま発見した白い粉(恐らく構成員の私物)も破棄していたら裏庭にたどり着いたのだ。
「何もないよ」
「ないんですか」
「うん、ない。――――――ただ、子どもの時は、もっと、越えがたいほど高い塀だと思っていたから、案外低いのだと驚いてしまってね」
「大人だったら楽に越えられちゃいそうですね」
中島は背伸びをした。そうすればぎりぎり向こう側が見えるのだろう。そしてやはり心配そうに太宰を見る。
「……らしくもなく感傷に浸ってしまった。心配かけたかな?」
中島はその瞳に純粋な好意だけを湛えて「昔、此処で何があったんですか」と震える声で訊いた。
 恐らく彼の脳内で幼い自分はマフィアに虐待されているか、或いは友だちを殺されたか、己の経験に照らし合わせ想像の翼を広げているのだろうと思うと口角が上がりそうになる。
(敦君は素直で優しいけれど、物差しが全て自分の幼少期なのはどうにか乗り越えないとね)
しかしそんな未熟な優しさは嫌いではなかった。

「さっき友だちごっこをした、と云ったね。その遊びは、まあ楽しかったのだけど相手が突然いなくなってしまってねえ。遊び自体は自然消滅したのだが、暫くしてしれっとその彼が私の前に現れたのさ。
 そりゃあ驚いたよ。てっきり死んだと思っていたからね。しかし肝心の彼はごめんとも言わない! だからそれとなく謝らせようとアピールしていたのだけれど一向に気づかなかった。その後嫌というほど知ることになったんだが、悲しいかな、彼は脳みそまで筋肉で出来ていたんだよ。
 厭がらせのしがいはある男だが、まだ謝ってもらってないんだ」
太宰は塀を撫でながら捲し立てた。
「…………苦労したんでしょうね」
「それはどちらを指しているのかな?」
「太宰さんが思っている方です」
「つまり私か!」
中島は違いますと声を張り上げた。揶揄かいがいのある後輩に太宰は満足げに笑う。



 不意に中島の表情が強ばった。何か、何かが此方を見ている。太宰はそんな後輩の様子に苦笑する。

「相変わらず空に浮かんだ青鯖みてえな顔してんなァ!」

 和やかな空気を震わせたのは落ち着いたテノール。
 ふわりと音もなく空から降り立ったのは黒装束の赤毛の青年。
「っ!ポートマフィア!」
中島は臨戦態勢に入る。
「…………やあ中也。いつ此方にくるかと思っていたよ。まさかあれで隠れていた心算?」
太宰が馬鹿にしたような薄笑いを浮かべると青年―――中原中也の額に青筋が立った。太宰はちらりと開け放たれた三階の窓を確認した。
「君のことなら私は全て把握してると何度云ったら分かるんだい。僅かな気配でも君が君である限り判別可能さ」
じゃないと相棒は務まらないからね、という言葉はそれを知らない後輩に配慮して口にはしないでおいた。
「手前、気持ち悪ィな」
鳥肌が立ったとばかりに腕をさすりながら中原は吐き捨てる。
「そンで、手前が人虎か」
「だったら何だ?」
「おーおー威嚇してくれちゃってんなァ。その調子で芥川の出稚とやりあってんのか」
中原からは殺意も感じなければ敵意も感じられない。それが寧ろ中島を警戒させていた。
 太宰は中島を宥めるように肩に手を置いた。
「敦君、今は停戦中だし向こうも争う気はないだろう。落ち着きなさい」
「でも……!」
「残念だけど今の君では敵う相手じゃない」とそっと耳打ちをする。それを無感情に眺めていた中原に「それで?」と促す。
「そんな警戒すんな。戦争しようってんじゃない。ちょっとした……平和的話し合いがしたくてな」
「武闘派の君が平和的話し合いとは笑わせるじゃないか」
「俺は昔から手前さえいなけりゃ平和的話し合いは得意分野だったんだぜ?」
「冗談だろ? すぐ挑発にのる君が?」
「そりゃあ手前が厭がらせするからだろうが。忘れたとは言わせねえ」
ぽんぽんとリズムのいい応酬に中島は目を白黒させていた。表面上なら二人とも実に和やかな顔をしているというのに徐々に二人の応酬は子供じみた悪口の云い合いになっていく。
「……まァいい。取り敢えず俺は交渉しに来たんだ。そこの人虎は席外せ」
餓鬼はサッサと帰んな。中原はひらひらと手を振った。
「なッ……、僕は此処に探偵社員としているんだ。何が不満だ」
中島は吠えた。交渉の相手として不足であると判断されたことが屈辱だったのだろう。余裕を崩さない中原は太宰にちらと目配せをする。それを見て太宰は唇を噛んだ。
「……敦君。申し訳ないが、先に帰ってくれないかい」
「太宰さんまで!」
どうして、と顔を歪ませる後輩を見るのは忍びない。しかし中原相手では中島は良いように転がされてしまうだろう。相手は腐ってもポートマフィアの幹部だ。中島の正しさや誠実さはマフィアの理不尽の前に歪められてしまうのは目に見えていた。その事実をまだ十八の後輩に見せたくなかった。
「ここは私が引き受ける。それとも私じゃ安心出来ないのかな?」
「っ、」
中島は悔しそうに中原を睨み付けると足を虎化させ走り去った。


「格好いいじゃあねえか」
中原は「なあセンパイ」と一文字一文字を区切るように口にした。
「まあね。あれは可愛い後輩だから理不尽の権化たるマフィアの前に晒したくはない」
「…………過保護だな。くだらねえ」

 中原はふぅ、と息をついてから太宰の顔を見る。その顔には彼の営業用スマイルが貼り付いていた。
「リストの方は妥協してやる」
「代わりに何を妥協してほしいのかな?」
中原は笑顔のまま微かに殺気を漂わせた。
「依頼主」
「なぜ?」
「私怨」
「依頼主と君の関係は?」
「俺がそれを手前に云うとでも?」
中原は笑顔を崩さない。
「ほら、手前が持ってるそのリストを寄越せ。そうすりゃあブタ箱にぶちこまれた異能者どものことは諦めてやる。手前の目論見通りダミーに踊らされてやるよ」
それを聞いて太宰は顔を歪めた。
 中原は私怨と云った。恐らく依頼主を亡き者にする心算だろう。しかし私怨で人ひとりを殺す為に組織の益となる異能者リストを犠牲にするだろうか。彼の忠誠心からそれは天と地が引っくり返ってもありえない。だとすると――――。
「既にリストは手の内ってことかい」
選択肢は無いようだねと太宰は大仰な仕草で天を仰いだ。
「もともと、此方としては断ってもいい案件ではあったんだ。もしポートマフィア絡みの厄介事なら首を突っ込むのは停戦中という現状に鑑みると相応しくない」
ほら、とダミーのデータが記録されたメモリーチップを渡す。つまり、依頼主はどうにでもするといい、という意思表示。
「やけにあっさりしてやがんな。しかし、何故この案件を引き受けた」
「此処が懐かしかったから」
太宰の言葉に中原の笑顔が崩れた。
「手前、正気か?」
「君だって懐かしかったから五大幹部のくせにこんな雑用をしているんじゃないのかい?ああ、それとも…」
太宰は距離を詰める。
「私に会えるって期待した?」
挑発するようにねっとりと口にする。
 案の定、中原は凶悪な顔をしたが直ぐに笑顔を貼り付ける。
「ああそうだな。探偵社が引き受けたとなりゃあ手前が来るとふんだ。腹が真っ黒な手前なら依頼人がどうなろうと知ったこっちゃねえだろ。探偵社の中で一番交渉しやすい」
「酷いな」と大袈裟に傷ついた素振りを見せた。
「だいたい懐かしいってほど手前はここの―――X様の世話になってねえだろうが」
「へえ。私怨って云うのは元ポートマフィア幹部のXさん絡みかい?」
「おっと。詮索は無しだ……と云いたいところだが手前は自力で調べあげるんだろうから教えてやる。手前らの依頼主はX様の娘婿だ」
流石の太宰も目を見開いた。

 Xは森が首領になる少し前に引退し海外に高飛びしていた。Xは組織の内部抗争に巻き込まれるのを嫌がったのだ。
 なんせX自身は前首領の走狗であったにも関わらず彼が手塩にかけて育てた尾崎紅葉は森派の筆頭であった。恙無く代替わりを為すことが出来るのか憂いたXは堅気であった娘の身を案じ一家で米国に移り住んだのだった。太宰はその後の消息を知らなかったが、どうやらポートマフィアは彼の動向を監視していたようだ。
 しかし、どうにも腑に落ちない。
「Xさんは引退した身だ。それに今更森さん――――首領をどうこうしようなんて考えないだろう。それは君がよく知っている筈だ」
なのに、何故彼の娘婿を亡き者にしようとする?
「……X様は下劣な真似はしない御方だった。御嬢様は堅気で此方の世界とは関係がない方なんだ。
 それなのに奴―――娘婿となったあの男は御嬢様に近付き此の場所の権利を得て薄汚ねェ商売に手を出した。X様の名を汚した。
 私怨としちゃあこれだけで十分だろ」
「成る程、君はXさんの事を慕っていた。しかし、だからといって五大幹部である君が自ら動く案件なのかい?」
「俺にとっちゃあ“それだけの事”なんだよ」
中原は目を伏せて噛み締めるようにそう云った。その童顔に大人の表情を作り何かを憂いている。
 その何かが分からない。理解できない。

「何が君をそんなにも駆り立てるのか、理解できない」
太宰はむかむかとせりあがる吐き気を抑えるように拳を強く握った。中原中也という男の殆ど凡てを把握しているという自負があった。例えば呼吸や間合い、拳の強さや蹴りの速さ、動きのパターンに癖。好きなもの、嫌いなもの。どんなセンスか、何にこだわっているのか。どんなことをすれば笑い、どんなことをすれば怒るのか。

 それなのに、彼に関して分からないことがあるのが不快でならない。

「はぁ? 当たり前だろ。手前は俺の凡てを把握した気になってるだろうが、手前が知らない俺の人生ってモンがあるんだよ」
「…………」
太宰の瞳が暗く濁る。
(中也のくせに。組合戦の時は裏切り者の私に命を預けたくせに。あまつさえ信頼なんて口にしちゃうような、単純馬鹿のくせに)
「そンな目ェして駄々こねても無駄だぜ?」
「そンな目ってどんな目さ」
中原はにんまりと、チェシャ猫のように笑って「俺の事が把握できないんで拗ねてる目だ」と云った。

 カァッと目の前が赤くなった。図星をつかれた。太宰は裡に抱えたドロリとした感情が洪水を起こすのを自覚した。
(私の把握していない中也があるなんて認めない。私は誰よりも中也のことを知っている。分かっている)
 太宰は中原との距離を更に詰めて両の手でそっと首筋をなぞる。
「うふふ……チョーカー、邪魔くさい」
「手前、今日はいつにもまして気色悪ぃな」
うんざりしたように中原は云ったが手を振り払おうとはしない。それどころかきっと彼は大きな犬がじゃれている程度にしか思っていないだろう。
(たとえ中也が私のことを理解していなくても、私は中也の手綱を握っている筈なのに)

 太宰にとって、中原は理解者ではない。彼は太宰治を理解しようとして、そしてそれを諦めた裏切り者だ。それなのに彼は時おり太宰治の凡てを見透かした顔をする。それがどれだけ太宰の心を乱すか、彼は知らない。
「……ねえ中也」
「ンだよ」
「私ね、中也の事が大嫌いだ。世の中のすべての不幸が君におこればいいと思ってる」
太宰は脳に直接響かせるように耳に言葉を吹き込んだ。愛の告白でもするように、甘くとろけるような声で中原の不幸を願う。これは呪いだった。
(心臓が止まるその時まで、君が私の呪いに蝕まれればいい)
「……はあ?」
中原は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。それを無視して太宰はそっと耳朶を食む。びくりと跳ねる肩に、やっと彼の余裕を崩せたことにほくそ笑んだ。
「ねーえ、中也に聞きたいことがあるんだ」
中原の心臓があるあたりをなぞる。
「聞かせてよ。中也は私のこと、どう思ってる? 呪いたいほど私の事が嫌い?」
 嗚呼、中也は何て言うだろう。
(ただ一言、「俺も同じだ」と言って欲しい。私と同じだけの重さの呪いを私にかけて欲しい。そうすれば、きっと、私たちは何処までも繋がっていられる。だって私たちは同一なのだから)
 双黒、とはよく云ってくれたものだと太宰は思う。並び立つ双つの黒。その呼び名は二人が同一のものであるという証明のように思えた。二人の本質はまったく同一のもの、黒なのだと。
(だから、たとえ何から何まであべこべな私たちでも、同一でなければならない。そうあるべきなのだよ)

 太宰は祈るように、乞うように、中原の肩口に額をつけて俯いたまま中原の言葉を待つ。
「中也は私のこと、殺したいほど嫌いだろう」
「急かすなっ……まずは離れろ馬鹿野郎。潰されてェのか」
(声、少し震えてるのに強がって吠えちゃって。無様)
「いいか、俺は、手前のことが大嫌いだ」
「うん、知ってる」
「だから――――」
太宰は息を止めて次の言葉を待つ。中原は呼吸を整えていた。その一瞬が酷く甘美な時間に思えた。

 中原は太宰の頬を両手で包み込むようにして顔を上げさせる。太宰の顔を見ると少し驚いたような表情をした。そんなに酷い顔をしていたかしらんと思っていると頬を撫でられる。
(あれ、おかしい。普段の中也ならこんなことしない)
「――――手前の望む言葉をくれてやることは出来ねェな」
中原は微笑んだ。見たことのない優しげな顔だ。
(否、昔――もっともっと私たちが幼い時分、【君】はそんな顔をしていた)
ああこれは、違う、今私が欲しいのはソレじゃない。
「俺は、手前のことを愛してるぜ。この世の幸福な事のすべてがお前に起こればいいと思ってる」
云いきった中原は上手く敵を罠に嵌めることが出来た時と同じ顔をしていた。
「……熱烈な告白だね」
「最低最悪の気分だろう?」
「まったくだ」
ふふんと中原は得意気に笑う。
「言っておくがなァ、これは呪いだ。手前の心臓が止まるその時まで、手前は俺の呪いに縛られろ」
「中也が私の幸せを願ってくれるなんて嬉しいな」
苛々とした感情が命じるまま太宰は中原の肩を掴む手に力を込めた。そして感情のままに喉仏を食めば低い声が響く。
「んぅ、っ、……こら。呪いだって言ってンだろ。この変態野郎が」
「やっぱり手前なんざ大嫌いだとか云って前言撤回してくれないかなあ」と考えていると中原から強烈な一撃を横っ面に喰らって太宰は膝から崩れ落ちた。まともに喰らってしまったのは注意力散漫であったが、膝から崩れ落ちる程度で済んだのは幸いだ。勿論、中原が手加減したからではあるものの。

「――――――――俺たちは、あべこべぐらいで丁度良い」
彼らしからぬ優しい声が頭上から降ってくる。その声色が腹立たしくてならない。
「嫌だよ。私はお揃いがいい」
「ほうら見ろ。求める物まであべこべだろうが」と中原は云う。
「だって【君】と【私】は双子みたいだったじゃないか」
太宰は云った。
「【君】は【私】に優しかったし、【私】のことを理解しようとしてくれた。なにより【君】は【私】の事を好いていた」
仕方がないな、というように中原は天を仰いだ。
「【俺】はもう死んだんだ」
(――何を云っている?)
「【君】も死んだ」
(――殺したのは君じゃないか)
「手前も、もう【俺】の死体も【君】の死体も捨てちまえ」
(――嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ。君が勝手に【私たち】を殺した癖に。何をいけしゃあしゃあと。
 卑怯者。君は、私に、謝罪すべきだ)
優しく、殊更優しく中原は云った。
「遊びの時間は終わったんだよ」



 ジャキン

 そんな音と共に太宰治の【私】と【君】は断頭台の露と消えた。幼い日々の影が消えた。中原の一言であっけなく弾けとんでしまったのだ。
(【遊びの時間】………?うん……そうだね。
 【私】も【君】も………

  影だった

   泡沫の日々の、影を
  私は、いつまでも
 ずっとずっと――――
     棄てられない。だって、これは、)

 太宰は笑い出したくなった。
 霧が晴れたようになった頭で自らを振り返れば、見えなかったものが見えてしまう。
 なんてことはない。およそ子どもらしくないと云われていた彼は、その実ちゃんと子どもで、孤独な子どもらしく愛に飢えていたのだ。
 そしてそれを与えてくれたのが中原だった。雛鳥のように口を開けていれば求めるものをせっせと与えてくれる。それも無条件に。幼い太宰は大喜びで彼に執着した。当時の自分の所業を思い返せばいっそ死にたくなるぐらいあからさまに太宰は中原の愛を求めていた。
(しかも、当時の中也はおそらくそれに気づいていたんだろう。だから私に他の大人に甘えろって云ったんだ……中也のくせに生意気。
 しかし悪いけど君が私の【君】と【私】を消したところで、どうやら君の前で口を開けるのはやめられないみたいだよ)
あまりに幼いその感情を二十二になった今でもそれを抱き続けたうえに、それなりの年月を経て中原から与えられるものなら嫌悪すらも喜んで胃に収めるほどに拗らせてしまったのだから手に負えない。
(まったく、ろくでもない男だね)
 彼からの愛が欲しい、繋がっていたい、同一でありたい。
 自分の感情を一つ一つ整理していけば余計に欲はむくむくと膨らんでいく。

「太宰……?」
黙りこくってしまった太宰に中原はやや心配そうに声をかけた。こういうところが隙なのだと理解できないでいるのが彼の甘さであるが不幸なことにそれを指摘する者はいなかった。
「……そこまで云うなら仕方ない。中也、君の薄気味悪い告白を甘んじて受け入れよう」
「なんか腹立つな」
「今私の心臓は君の愛もとい呪いに蝕まれている」
「………………気持ち悪ぃからやっぱ前言撤回する」
「そこで君にお願いがあるんだけど」
「おい聞けよ!」
太宰はすっくと立ち上がると至極楽しそうに、ニタニタと悪い笑みを浮かべた。ひくりと中原の頬がひきつる。
「口の中切っちゃったから治療してくれたまえ」
「…………」
「…………さっき君に殴られて血が出てる。結構痛い」
「………………一応聞いてやる。どうやって治療してほしいのか云ってみろ」
「舐・め・て?」
「断る! ばかじゃねえの?!」
「だって君、さっき私の幸福を願ったじゃないか。私の幸福は君に治療されることだ」
「手前ェェェ!!」
勢いよく繰り出される蹴りをひょいとかわす。
「【君】と【私】への餞別だと思って。ね、頼むよ」
これが【私】の最後の我が儘だ。
それを聞いて中原は凡ての表情を引っ込め太宰を凝視した。この目は探る目だ。太宰が一等嫌う太宰治を見透かす目。
(ああ、その目。きっと、君は私の願いを聞くのだろうね)
それは確信だった。
「いいだろう」
 中原は静かに頷いた。
 太宰に近づき頬にそっと手を添えて下を向かせる。
「目、閉じろ」
「ん」
言われた通りに目を閉じる。顔の近くに温かい気配がある。
「これは、餞別だからな」
 そして唇に柔らかい感触。下唇を軽く食まれ舐められる。口を開けば侵入してくる彼の舌。傷を探して内頬の辺りを蠢いていた。悪戯心で舌を擦り合わせてみると足を踏まれた。余計なことはするなということらしい。

「んっ、ぅ……」
傷を舐められ思わず呻き声をあげてしまう。中原はといえば、ようやく傷を見つけたことに安堵したのかふっと息をもらしていた。
 堪らずに目を開けると悩ましげに眉をひそめた中原がいた。中原は太宰の血が混ざった唾液をこくりと飲みこみ、傷を丹念に舐めている。
(温かい、優しい、気持ちがいい……私、今、愛されてるなあ)
気がつけばぽろりぽろりと涙が溢れていた。ぽたりと中原の顔に落ちた滴を親指の腹で拭った。同じように涙で濡れた太宰の頬を中原は親指の腹で拭う。
(嗚呼……本当に温かい
 中也の紅茶色の髪、太陽の光を反射してる
 キラキラしてて、綺麗)

 空間を切り取ったように、控え目な水音だけが廃墟に響いていた。





「太宰さんっ! 見てくださいこのニュース!!」
太宰が出社するなり中島は手元の端末をずいと差し出した。
「やあ、お早う敦君。結構なご挨拶だね」
中島は慌てて「お早うございます」と云ってから「これ!」と再び端末を太宰の眼前に掲げた。
「一体何だい……って、おや?」
端末に写し出されたニュース記事は横濱某所の廃墟が火事により消し炭となった事を伝えていた。
「ここって、昨日の場所ですよね?!」
敦が興奮気味に云った。しかし太宰は何も云わずにじぃっとニュース記事を見詰めていた。そして突然「あっはっは」と笑いだした。
「えっ、え? 太宰さん?」
「いやあ、敦君。君は大方これが放火で何らかの事件の匂いを感じたのだろう? ……あの場所にはまだ秘密があったんじゃないかってね」
「ええ、そうですが……」
「それなら全く問題ないから安心したまえ! この火事はポートマフィアとは何にも関係がないよ。でも、まあ犯人は粗方予想がつく。大丈夫。私からキツく云っておくから」
「なっ……関係者なんですか?!」
太宰は「私的な関係があるだけさ」と意味ありげにニヤニヤ笑ってばかりでいた。
「おい太宰! よもやこれはお前のせいだと云うことはあるまいな!」
「国木田君、それは無いから安心したまえよ」
痴情のもつれかと疑う社員の目など全く気にしていない。
「これはまったく私のせいではないのだけれど」太宰は幸せそうに云った。「あれは些か照れ隠しが過激でいけないね」





fin.


※本文中の引用はすべてボリス・ヴィアンの「うたかたの日々」より