MAIN文豪ストレイドッグス長編

眩惑の泡,或いは泡沫の日々

「そうよ」ハツカネズミはいった。「あの人は睡蓮が水面まできて自分を殺してくれるのを待っているの」
「そりゃバカげてる」猫はいった。「何のためにもならない」




chapter3.善き隣人たれと人は云う]

 尾崎が出奔を企てたのは、中原が十の頃だった。姐さんと呼び慕っていた姉貴分は、中原によくしてくれていた。
「俺は学校に行きたいです。筆箱とノォトと教科書を詰めたランドセルを背負って、学校に行ってみたいです」
そう気まぐれに云った中原の願いを聞き入れとある幹部に懇願してくれたのは彼女だ。彼女は優秀な暗殺者であったので、その彼女が目をかけている少年の我が儘は特別に許された。中原は運がよかったのだ。

 その彼女が男と逃げた。裏切られたのかと中原は怒りさえ覚えた。
 しかし同時に何時かこうなるような気もしていた。何故ならば、彼女は中原の話す昼の世界を眩しそうに聞いていたから。
「それはな、駆け落ちって言うんだぜ」
そう云ったのはクラスのマセた少年だった。中原が「姉貴が年上の男といなくなった」と云ったら得意気に覚えたての知識を披露したのだ。
「かけおち?」
「好きな人とどうしても一緒になりたいから、逃げるんだって。そこにいると離ればなれになっちゃうから」
中原はそうかと納得した。
「じゃあ姐さ……姉ちゃんは、好きな人と二人で幸せになるために出ていったんだな」
そう思っても裏切られたという気持ちは拭えない。
「そんな風に思う俺って悪い子かな」
中原はしょぼくれた。
 しかし彼女の駆け落ちは数日で終わる。尾崎は自ら組織に戻ったのだ。

「これは森医師の策らしい」
「医師の?」
「男は離反の意志があったとか。尾崎はそれを知った上で奴と出奔する。そしてその情報をこの前の小競り合いの残党にリークするのさ。二人が残党と手を組もうとしているというデマ付きでな。尾崎は優秀な暗殺者だから残党はそれに飛び付いた。そして男もろとも尾崎は残党を殺したという訳だ」
「ははあ……」
そう大人たちが口にしているのを聞いた。

 そうか、と中原は納得する。
 そうか、森医師は、紅葉の姐さんの命を守ってくれたのだ。それも、組織に益になる形で、尾崎が咎められない形で。
(逃げ出したのなら二人は殺される。逃げ切れるわけがないから。でもどちらか一方なら可能性はあった。森医師は姐さんの命を選んだんだ。残党を殺すために姐さんが一芝居打ったとすれば姐さんにはお咎めがいかない)
中原は健康診断でしかお目にかけることのなかった医師に、その時初めて尊敬の念を抱いた。
(森医師に、お礼を云わなきゃ)
中原は善は急げとばかりに医務室へと急いだ。

 コンコンと扉を叩く。「どうぞ」という柔和な声。森の声だ。失礼します、と中に入る。部屋の隅には金髪の少女がいた。
「あ、あの。中原です」
「君が此処へ来るなんて珍しいね。どうしたのかな?」
「姐さんのことで……」
森はああその事、と納得したふうだった。
「そうか、君は尾崎君の弟分だったよね。彼女なら奥の……仮眠室で休んでいるよ。怪我をしているし疲れているけれど無事さ。会っていくかい?」
「ぁ、はい。会いたいです……でもその前に医師にお礼、云わなくちゃって思って」
中原は思い出したように帽子を取ると胸にぎゅっと抱き、森の目を真っ直ぐに見た。
「姐さんを助けてくれて、ありがとうございました」
「どういたしまして。でも、ふふ……私は腐っても医者だからね。そんなあらためてお礼を云われるなんて照れ臭いな」
森は相好を崩し照れ臭そうに頬をぽりぽりとかいた。
「いやぁ、最近は君ぐらいの年の子からめっきりお礼を云われることもなくなってしまってね」
「あ、えっと、それもなんだけど。それだけじゃなくて」
森の指がぴくりと反応する。
「姐さんが誰にも何にも云われずに、今まで通りマフィアに帰ってこれるようにしてくれて、ありがとうございました」
「誰がそんなこと云っていたのかな?」
瞬間、森の纏う空気が変わった。
「え……?」
中原は動揺した。さっきまで優しかった森が、今はまるで別人のように感じる。
「ああ、怖がらせる心算はなかったんだ。すまないね」
「ぃ、いえ。大丈夫です」
中原は声を振り絞る。
(重力操作してないのに、周りの空気が重い)
それでも何とか森からは視線を外さずに口を開いた。
「誰かが云ってたんじゃなくて、俺がそう思ったんです。男としゅっぱ……しゅつぱん……しゅっぽ、しゅつぽん?」
「出奔」
「しゅっぽん、したって聞いて。誰も俺には説明してくれなかったけど、多分姐さんは駆け落ちしたんだろうって思ったんです。でも、姐さんが戻ってきたと思ったら、次は皆が本当は森医師の策だったんだって云い始めて。さすが森医師だって……。だから俺、思ったんだ。森医師……あなたがそういうことにしてくれたんでしょう?」
森の表情は変わらなかった。
「……それは、私の策だと云うことが信じられなかったということになると思うのだけれど」
「え?!そうではありません!
 でも、残党と離反者を潰すだけなら姐さんの名前を教えちゃうのは……ええと、何て云うか、回り道だと思ったんです。だって姐さんなら残党と離反者ぐらいすぐに殺せちゃうから。俺には回り道をしても、良いことなんてないと思えるんです。
 だからきっと森医師が姐さんを裏切り者にしないようにしてくれたんじゃないかなって。姐さんと男の人を選ぶなら、組織の為に姐さんを助けるに違いないって、そう思ったんです。
 ……それに、」
「それに?」
「姐さんは、あの男の人といる時は幸せそうでした。あれは本物だと思ったので……」
中原の答に森はきょとんと呆け、そして吹き出した。
「なんで笑うんですか!」
「君はとても素直な子なんだね。そして、うん。素晴らしい勘だ。良くできました。だいたいは正解で、ところどころ不正解かな」
よしよしとばかりに森は中原の頭を撫でまわした。中原は「やめてください!」と甲高い声で叫ぶも、誉められてまんざらでもない様子でその手に甘んじていた。怖かった森が再び優しげな雰囲気に戻ったことに安心した。そして「偉いね」と誉められて嬉しかった。
「ただね、気づいていても、そういうことは云わないでおくものだよ」
「そうなんですか?」
「ああ。きっと大人たちも気づいている人は気づいているさ。しかし、皆口を閉ざしているんだ」
さあ、そこの扉の奥で尾崎君は休んでいる。行っておあげ。
 森はにこやかに扉を指差した。

 中原は急いで扉を開けた。中にいたのは彼のよく知っている頼れる姉貴分ではなかった。そこにいたのは哀れな少女であった。
 その時、中原は強くなろうと決めた。弱ければ男のように殺される。男のように大切な人を傷つける。強ければ姐さんのように生かしてもらえる。でも姐さんよりもっと強くなければ自分を守れない。
 だから学校は――――昼の世界は無駄だと切り捨てた。後悔はなかった。もとより昼の世界からは拒絶され流れ着いた命だったのだ。今更昼の世界を求めたところで何になるというのだろう。結局、昼の世界に憧れなど抱けなかったし夜の世界に身を置くことの方がよっぽどありのままでいられた。
(太陽の光は俺の本性を照らし出す。痩せっぽちのちびな、惨めな子ども。
 でも、夜の…月の光は優しい。きたない泥濘は惨めさを隠してあらゆるものを肯定してくれる。悪徳も本能も全部肯定してくれる。太陽の温かさはないけれど、俺に許された世界だ。
 不条理で不合理な昼の世界なんて、棄てちまえ)
 齢十にして中原は小さな大人のような顔をして皮肉げに笑ってみせる。彼の少年時代は彼自身が縊り殺した。




***




 幼い頃の中原は自由の象徴だったとは太宰の弁である。
「今でこそこんなんだがね」
「こんなんとは云ってくれる」
「こんなセンスの欠片もない脳筋小男だけどね」
「云い直してんじゃねェ!」
要約すると太宰が幼い時分、中原のその能力から“自由”を想起させていたらしい。凡ての人間が捕らわれる重力という鎖を断ち切り自ら鎖を繋ぎ直す能力だそうだ。
(俺にとっちゃあ地獄へ繋がる鎖なんだがなあ)
赤い顔のまま何が楽しいのかニタニタと笑ってグラスの中の氷をつつく太宰を一瞥し、ため息をついた。

 どうして犬猿の仲である太宰と中原が並んで酒を飲んでいるかと云えば単純なことで、太宰が中原を呼び出したのだ。
「やあちびっこマフィアの中也君!たまには酒でもどうだい?いつものバーで待ってるよ」
ちなみにこれは幹部命令だと高笑いつきの電話は中原の返事を待たずに切れた。
 勿論、中原は従う気など爪の先ほども無かったのであるが妙に引っ掛かってしまった。
(最近あの野郎に何かあったか?)
自殺に失敗した、良い自殺方法を考え付いた、女性に振られた、複数の女性と修羅場を巻き起こした。様々な可能性を考えるもどれもピンとこない。ただの中原への嫌がらせか?
「ってか何時ものバーって何処だよ」
中原と太宰が二人で酒を飲むことは極めて稀である。よって中原は太宰の行き付けなど知らない。
(やっぱり嫌がらせか。――――でも彼奴の行き付けを知っている奴といえば、)
頭に一人の友人――否、友人と思っていた裏切り者の姿が浮かんだ。坂口安吾である。
(ああ、奴は太宰と友人だとかなんとか云っていたな。それから、もう一人。織田とかいう奴も……)
織田作之助は死んだ。そういう報告をちらと耳にした。
「…………」
中原はほんの少し逡巡し、太宰の部下を捕まえバーを調べた。

 しかし、まさかバーに来てそうそう太宰の口から「君は昔、自由そのものだったのだよ」と意味不明な思出話をされるとは夢にも思わなかった。
 中原にとってはどれだけ精密に能力を操れるようになったところで自身の異能力は諸刃でしかない。それとの付き合いを間違えればあっという間に地獄行きだ。
(それを唯一断ち切ってくれるのが手前だってのに、その手前が俺の異能を“自由”と云うとは皮肉なもんだ) 
「重力に逆らう能力もそうだ。けれど、何より君は鉄条網の外の、昼の世界を望み与えられた希有な子どもだったからねえ」
太宰はうふふ、と懐かしむように目を細めていた。
「ああ、そっちか。……今となっちゃあ“小学生”だった自分なんて、敢えて思い出したくもないもんだが」

 ふと、中原は古い記憶を掘り起こす。確かこの頃は太宰と中原にはささやかな交流があったはずだった。
 それはまだ中原が学校に通っていた時の事だ。遅刻しそうになったから近道しようとして裏庭の塀を異能力を使い飛び越えた。それを目撃していたのが太宰だった。中原が何処かで見たような顔だと思い塀から覗いて見ると彼は此方をジッとみつめていたのだ。

 その時のことはよく覚えている。時が流れを止てたように思えたから。
 鳶色の髪に透明な白い肌。体のあちらこちらに絆創膏を貼り付け包帯をぐるぐると巻いているが、それも一つの趣向のようで。彼は何から何まで作り物めいた整った顔をしていた。
 その中で零れんばかりの大きな瞳だけは何かを渇望しぎらぎらと生を主張している。
(綺麗な子。でも、ちょっと変な奴)
中原は太宰から目をそらすことができなかった。
 恐らくその日の太宰の瞳が写していた渇望とは“自由”とやらへの渇望だったのだろう。
 それから数日後、どうしても彼に再び会いたかった中原は再び同じ時間同じ場所に走っていった。そしてそこに彼の日の少年がいたことに歓喜した。
「また会える?」と少年は云った。
「これより少し早い時間なら」と中原は返した。

 そうして始まったささやかな交流。誰にも言わない、二人だけの秘密の時間。
「そうだ、名前教えろよ」
俺の名前は、と名乗ろうとすると少年はそれを制止して「名乗らなくても良いじゃない。秘密っぽくて良いでしょう」と茶目っ気たっぷりに云った。
(やっぱりこの子は不思議な子!)
 少し話せば彼がとても頭の切れる少年だと分かった。そして作り物のような彼が自分の反応一つで生きた人間の顔をするのが嬉しかった。

 だから彼が【友達ごっこ】をしたいと云った時、中原は二つ返事で了承した。
 ルールは簡単。お互いを【君】と呼ぶ。他の人間の話題はしない。お互いを思いやる。
「なんで名前を云わないんだ?」
「だってここは【君】と【私】しかいないんだよ。名前なんていらないじゃないか。二人だけなんだもの」
二人だけ。なんだかそれが特別な気がして嬉しかったのを覚えている。

 あの【ごっこ遊び】をしている時の二人は絵に描いたような仲の良い友達でいた。
 中原は少年が求めるまま、できる限り甘やかそうと決めていた。
「今、この瞬間は【君】と【私】だけだから。【私】は【君】のことなら何でも分かるよ。だから二人でいるのも一人でいるのと同じだね。【私たち】、一つになれるかもしれない」
流石に太宰がうっとりとそう云ったのにはゾッとしたが、これは思い出さなくてもいい過去かもしれない。

 中原は思わず苦虫を噛み潰したような顔をする。
(餓鬼の頃の話だ。その後初めて二人でコンビを組まされた時は奴の本性がこんなのだとは思わなかったから面食らったもんだ)
【遊び】が自然消滅してから彼と再会して、「互いを思いやる」というルールのない状態では二人が驚くほど気が合わないという事実に中原は自分のことながら驚いたのだ。そして何より太宰の遠慮のない言葉の暴力は的確に中原の急所を突いた。
「君って蛞蝓みたいにテラテラしてて、とても付き合えたもんじゃないよね。がさつで口も悪いし趣味も悪い」
これを云われて怒らずにいられる人間がいたらお目にかかりたいと中原は奥歯を噛み締める。
 余談であるが中原が「空に浮かんだ青鯖みたいな顔」と太宰を罵倒したり、酔って太宰の部屋に押し掛け眠る太宰の枕元で「ばーかばーか」と叫んだり迷惑行為をしていることは太宰の記憶に深く刻まれている。そして中原自身に罪悪感がないことは特筆すべきことだろう。

(あの遊びは何時か卒業しようと思っていたし、丁度姐さんのこともあってごたごたしていたから自然消滅したが……)
もしもあの遊びを続けていたら果たして太宰と中原は善き友人となっただろうか? それとも【友だちごっこ】を今でも続けていた?
 想像する。昔のように太宰と中原が仮初めの友人関係を築きにこやかに笑っている姿を。
(……ないな。いくらなんでも薄気味悪ぃ)
ぶんぶんと頭を降ってそれを追いやった。

 平生ならそんな中原の怪しげな行動を揶揄かうであろう太宰は幸いにも演説に夢中で気がつきもしていなかった。
「君は自由そのものだった。
 それなのに!
 それなのに君はどうして変わってしまったんだろうねえ」
「変わった?俺がか?」
太宰はアルコールで赤くなった顔で「そうだとも」と力説した。曰く、森が首領となった日から一層酷くなったとか。
「つまりね、君はいつの間にか束縛の象徴に変わってしまったんだ。組織の束縛の象徴にね」
「組織の狗であることは否定しないが束縛されてるわけじゃあねえぞ」
ムッとして云い返す。しかし太宰は鼻で笑った。
「それだよ。君は組織に、否、首領に忠実過ぎるほど忠実だ。君を見てると気が滅入るのさ…………自ら束縛されにいって嬉しそうにしてる狗は沢山いるけれど、君はその最たるものだからね」
私にはその価値を見出だせないとぼやきながら太宰は指で氷を弄ぶ。
「あの人に従うってのは餓鬼ン時に決めた。それだけの恩があるし身を捧げるのに惜しくない御人だ」
「……きもちわるっ」
ぴしり、と中原が持っていたグラスに罅が入った。
「それで、お前は?」
「はあ?」
「それで、お前は何から自由になりたかったんだよ」
「え、何。そういう話じゃなかったろう。話のすり替えはよくないよ。ちびっこマフィアくん?」
太宰の顔が歪んでゆく。こいつのこんな顔は珍しいな。中原は太宰の虚ろな瞳の、表面をさらりと見やった。
「手前はマフィアから自由になりたいって柄じゃないしな。さしずめ世界から自由になりたいってところか――――――ははっ!随分と青臭ェじゃねえか」
けらけらと中原は笑った。笑っていたが内心は荒れ狂っていた。
「私のことなぁんにも理解してないのに、よくもまァべらべらと喋れたものだよね。厚顔無恥にも程があるよ?だいたい中也なんかに私のことが理解できるとは到底思えないのだけれど」
「手前を理解してくれる奴を探してるんだったら、御愁傷様だな。それは俺じゃあない。他を当たれ」
中原はウイスキーを飲み干した。怒りを抑えるのに必死だった。だからこの一言が太宰の逆鱗に触れたことに気がつかなかった。
「…………君じゃない?」
「そうだろうが。手前は俺の事を凡て把握してると云うが俺の事を何一つ理解してねぇだろ。それと同じだ」
「そうさ。中也は私を理解してくれない。その役割は君ではないッ!!君なんかじゃあなかったんだ。そして、それは、そんな人は、もはやいない!」
瞬間、中原の怒りも爆発した。
「五月蝿ェ!手前は勝手に期待して勝手に失望しただけだろうが!!いつもいつも!」
出口を指差し怒鳴る。
「そうやって喚くことしか出来ない中也こそ餓鬼みたいだ。気に入らなければキャンキャン吠えたてる。昔から何一つ変わらないッ!!」
太宰はグラスを床に叩きつけた。それを見て中原はすう、と頭が冷えていくのを感じた。自分より興奮状態にある者を見ると冷静になるらしい。
(こいつは一体全体、何を求めてやがるんだ?まさか、俺に慰めてほしいってわけじゃあないだろうな)
中原は今度こそ太宰の暗い瞳の奥を覗きこんだ。太宰の求めるものを暴こうとした。

 そして分かってしまった。瞳の奥の空洞は孤独と呼ばれるもので、それを埋める何かを欲しているのだ。
 太宰治は友だちが、良き理解者が欲しいのだろう。ついこの間、失ってしまったから。
(おいおい……冗談じゃねえぞ。俺にンなもん求めんな)
「………………その眼だよ。私はその眼が一等嫌いなんだ」
ぎり、と歯ぎしりの音と共に響く地を這うような太宰の声にハッとする。
「君は、私のことを理解することを放棄した癖に。君は違う。違う、違う。違ったんだ。違ったんだから、今更私をそんな眼で見るな」
まるで仇でも見るように太宰は中原を見ていた。
「そうだ。俺じゃなかったんだ。そして、手前の【君】は死んだ。とっくの昔にな」
太宰はそれを聞いて一瞬だけ泣き出しそうに顔を歪めると、やや多めの金をカウンターに叩き付け去っていった。
「云っておくがな、俺は手前のことなんざ一寸も理解できねえ。したいとも思わねえ。何処までいっても俺たちはあべこべなんだよ。忘れんな!」
太宰の背中に向かって叫ぶ。しかし彼からの応えはなかった。

 そして数日後、太宰が出奔した。尾崎の時と同様に裏切られたのかと目の前が赤く染まった。しかし、いつかの少年の声がこだまする。
「それはな、駆け落ちっていうんだぜ」
「好きな人とどうしても一緒になりたいから、逃げるんだって。そこにいると離ればなれになっちゃうから」
ああそうか。中原は納得する。
(太宰、お前は親友の魂と駆け落ちしたんだな)
そう思えば怒りは安堵に変わった。ただの駆け落ちならば悲しむことも怒ることもない。だってこれは裏切りではない。奴は放浪者となっただけなのだ。そう思えば、むしろ太宰に振り回されることもないのだと愉快な気分にすらなった。
「手前は俺の特別だった」
自宅のワインセラーからとっておきの葡萄酒を取り出しながら独りごちる。
「手前と俺は引くほどあべこべだった。だがジグソーパズルのピースみたいにお互いの凸凹がハマって一つの絵を作り上げてきた。でもそれももう終いだ」
さよなら相棒、俺の青春時代。
「快なる哉!」
中原は葡萄酒を煽った。素晴らしいくらいに清々しい気分だった。